豊臣秀吉が、養子の秀次が切腹する3か月ほど前に、その息子を要職に就かせると発言していたことを示す書状が新たに見つかりました。秀吉は、実子の秀頼が生まれたことで秀次と不仲になったというのが通説ですが、調査にあたった専門家は「秀吉が簡単に秀次一家を潰そうとしていなかったことを示す意味のある発見だ」と指摘しています。 その結果、文禄4年(1595年)に豊臣秀吉の側近、木下吉隆が毛利輝元に送った書状と判断され、この中に、豊臣秀次の息子を今の奈良県にあたる大和の国主にするという秀吉の発言が記されていたということです。 秀次は、跡継ぎのいなかった秀吉の養子になったあと、関白の職についていましたが、この書状が書かれた3か月ほどあとに謹慎させられ切腹し、妻や子どもも処刑されました。 村井准教授によりますと、秀吉と秀次は、この2年前に秀吉の実子、秀頼が生まれたことをきっかけに不仲になったというのが通説ですが
大津市の三井寺にある国宝の建物の修復工事の様子が公開され、訪れた人たちが薄く割った板を屋根に重ねる伝統技法の「こけらぶき」と呼ばれるふき替え作業を見学しました。 17日は工事の様子が初めて公開され、県内外から訪れた14人が足場に上って、高さ5メートルの屋根の上から見学しました。 客殿の屋根のふき替えには、厚さ3ミリに割ったサワラの木の板を重ね、腐食しにくい竹のくぎで止める「こけらぶき」という伝統的な技法が用いられています。 訪れた人たちは滋賀県教育委員会の職員から、ふき替えにおよそ10万枚の板が使われていることなどの説明を受けたり、くぎを打ち込む職人の作業を写真に収めたりしていました。 愛知県から来た50代の男性は「偶然に見ることができて幸運でした。設計図もない中で、緻密な作業を行う伝統の技はすばらしいと感銘を受けました」と話していました。 滋賀県教育委員会文化財保護課の尾山義高さんは「1
古代大宰府に配備された御笠(みかさ)軍団の銅印「御笠団印」(国重要文化財)の模造印が、県内で見つかった。1927(昭和2)年に太宰府市で出土した御笠団印をめぐり、当時の新聞に「所有権騒動で模造印5個が作られた」とする記事があり、今回見つかったのはその1個とみられる。当時の騒動を裏付ける物証となりそうだ。 見つかった模造印は高さ約5センチ、印面約4センチ四方で、小郡市の男性(63)が骨董(こっとう)収集マニアの知人から入手。知人は「福岡市内の旧家の屋根裏から見つかった」と話したという。 九州歴史資料館が蛍光エックス線分析装置で調べたところ、古代にはほとんどない亜鉛を検出。古色の保全用に使われる現代の絵の具成分も出なかったことから「昭和初期に作られた可能性が高い」と判断された。 本物の御笠団印は、昭和初期に太宰府市国分の桑畑で農家により偶然発見された。古代郡名から採った「御笠團印」の4文字を2
『上海』の難易度についての話を書いたら、さすがワタクシのお友達たち、ハンパではない経歴の持ち主の人たちばかりで、次々と驚くべき事実がわかったので、今回はそれについて書いていきたい。 まず、なにより『上海』というゲームのオリジナルの来歴自体がとんでもなく面白かったので、そこから話を始めていきたい。 元システムソフトの石川さんと話をしていたとき、オリジナルの(Activisionの)『上海』の話が出たのだけど、ではオリジナルとはなんぞやと調べてみた。 そして『上海』について検索すると、例によって信頼の全くおけない日本語版wikipediaがトップの方に出てきて「オリジナルはマッキントッシュ」と書かれていたのだけど、いくら調べてもそのソースが見つからない(ついでに書くと誰かが書き直した。だがPLATOだというソースはどこにもないので、なんだかなあと思ったが)。 Activisionのゲームだから
戦後まもないころに書かれた「世界史」「日本史」の教本はどんな内容だったのか? 山川出版社は『復刻版 世界史概観』『復刻版 日本史概観』(公益財団法人史学会編)を発売中だ。1949(昭和24)年に『世界史概観』、50(昭和25)年に『日本史概観』を出版、両書を原型に教科書の発行へとつなぎ、今では高校の歴史教科書で第1位のシェア(2018年度世界史・日本史)を獲得するに至っている。 両書が編集されたのは戦後、高等学校に社会科が新設され「世界史」が履修されることになり、「日本史」の授業も再開されることになった時期だ。戦前の中学校では「国史」「東洋史」「西洋史」という区分になっており、「世界史」の概念自体がなかったという。 いま読みなおすと新鮮な発見がありそうだ。 復刻版は内容の完全な再現にこだわり、紙面は当時と同じ縦書き。活版印刷の文字、手書きの地図など刊行当時のまま。文字を読みやすくするため、
マヤ低地で、繁栄と芸術的洗練のピークとされる時期に、人々の間で過激な争いが起きていたことを示す証拠について報告する論文が、今週掲載される。今回の研究から、マヤ社会では、従来考えられていたよりも早い時期に、都市の広域の崩壊につながる暴力的な争いが繰り広げられていたことが示唆される。 古典期(西暦250~950年)におけるマヤ社会の争いについてはこれまで、儀式的なものであって、その範囲は限定的だと見なされてきた。一方で学者たちは、古典期末期(西暦800~950年)における暴力的な争いの証拠を、マヤ文明の崩壊を促進した、争いの段階的拡大と解釈してきた。 今回、David Wahlの研究グループは、マヤ社会では、古典期末期よりかなり早い時期に広範な争いが生じていたことを明らかにしている。Wahlたちは、西暦697年5月21日にウィツナル(現在のグアテマラ北部)が2回にわたって攻撃を受けて焼き払われ
▽『竹書紀年』は晋代に戦国時代の魏王の墓から出土したとされる紀年体史書です。 ▽宋代のころに散逸してしまって、近代に下って各種文献の引用を集めて再構成されました。 ▽『竹書紀年』には古本と新本があって、古本のほうが本物とされているので、古本のほうを。面白そうな魏紀の部分だけを今回は紹介します。夏紀・殷紀・周紀・晋紀については、またの機会があればやりましょう。面倒くさいので注釈とかは省きます。どこの文献から引用されたかは、いちおうつけました。 ▽「三晋」は趙・魏・韓の三国。「梁」は魏のこと。「邯鄲」は趙のこと。「鄭」はほぼ韓のことですが、一部に春秋の鄭や地名としての新鄭を指しているところがあります。 ▽襄王十二年の「疾西風」の解釈は諸説あるので、無理に訳さず、放置しました。「疾」は「樗里疾」のことという説もあります。 ▽魏の歴史書なので、魏からみた視点で書かれているのは言うまでもなく。 ▽『
京都大学文学研究科と総合博物館は、文学研究科が所蔵する重要文化財『大日本史編纂記録』の修復・電子化事業を2017年度から 実施しており、このほど修復・電子化が完了した第1冊から第5冊までの206画像を、図書館機構が運営する京都大学貴重資料デジタルアーカイブに公開しました。 ▼重要文化財 - 大日本史編纂記録(文学研究科所蔵) 『大日本史編纂記録』は、徳川光圀(1628-1701)による『大日本史』編纂にかかわって、水戸・江戸の彰考館や京都の出張所などの間で交わされた往復書簡の控え等を中心とするもので、書簡総数は6,000点以上にのぼります。のべ42,810件の人名・組織名、のべ15,159件の古記録・古典籍名が言及され、内容も歴史学・文学、儒学・国学思想など広領域に及び、元禄期の出版文化の実態なども示す第一級の史料です。 修復前は、袋綴四つ目綴装の冊子248冊約1万丁で、江戸時代の綴装や修
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2019-06-26 16:28:43 | 新華社 | 編集: 张一 河南省鄭州市の青台遺跡から出土した土器。(資料写真、鄭州=新華社配信/鄭州市文物局提供) 【新華社鄭州6月26日】中国河南省鄭州市の青台遺跡で見つかった「北斗九星」を模した遺構が5千年以上前の仰韶(ぎょうしょう)文化中期の天文遺構だったことが20日、専門家により確認された。中国の天体観測による時間計測の歴史は、これまで考えられていたよりも千年近く遡ることになる。 同市文物考古研究院と北京師範大学が鄭州市で20日に共同主催した「青台遺跡天文遺構専門家鑑定研究会」には、中国科学院の国家天文台と自然科学史研究所、中国社会科学院、故宮博物院などの天文学や天文学史、考古学の専門家30人余りが出席した。 現地調査と討議の結果、専門家は「北斗九星」の形に配置された九つの土器のかめの大きさ
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お知らせ 2024/09/28 【メンテナンス】2024年10月4日(金)の19:00から24:00までの間、 データセンターメンテナンスのため本サイトが繋がりにくい場合が有ります。あらかじめご了承ください。 2024/09/26 【メンテナンス】2024年10月8日(火)の8:00から20:00までの間、データセンターメンテナンスのため本サイトがご覧いただけません。あらかじめご了承ください。 2024/08/24 【メンテナンス】2024年8月28日(水)の21:00から22:00までの間、 データセンターメンテナンスのため本サイトが繋がりにくい場合が有ります。あらかじめご了承ください。 2024/01/17 【メンテナンス】2024年1月21日(日)の6:00から22:00までの間、データセンターメンテナンスのため本サイトがご覧いただけません。あらかじめご了承ください。 2022/01
9世紀前半の山寺(山岳寺院)跡とみられる遺構が昨年確認された会津坂下町の高寺山(たかでらやま)遺跡で、古密教の祈祷(きとう)で利用する「修法壇(しゅほうだん)」や、湧き水をためる堰(せき)とみられる遺構が新たに見つかったことが25日、町教委への取材で分かった。宗教考古学専門の時枝務立正大教授(61)は、いずれも国内で数例しかない貴重な遺構と評価し「(会津に仏教文化を興隆させた)徳一(とくいつ)とも深く関わりがあると考えられる」としている。 町教委などによると、遺跡南東の高台で土を削り取った跡や石組み、物を燃やしたとみられる炭などが出土。高台北側では谷に沿って河原石が敷き詰められていた。出土品や遺構の状況から、修法壇と堰の跡とみられ、堰でためた水は、古密教の祭礼で利用された可能性があるという。 遺構は、出土した土器などの炭素の年代測定からいずれも9世紀ごろのものとみられる。同遺跡ではほかにも
平安時代末期の12世紀末に、父・平清盛とともに平家の全盛時代を築いた平重盛の邸宅「小松殿」跡(京都市南区)から、池跡が出土した。小松殿からの遺構出土は初めて。自然の湿地の周囲に土を盛って造成した簡素なつくりで、鎌倉時代前期に埋め立てられていたことも判明した。調査した民間会社「文化財サービス」は「平家の盛衰をそのまま反映した池」と評価する。 建物建設に伴い平安京の左京八条二坊五町の一部約215平方メートルを調査したところ、調査地の東端から池跡が東西約15メートル、南北約10メートルにわたり出土した。一緒に出た土器、瓦などから池は平安時代末の12世紀末に完成し、鎌倉時代前期の13世紀初めごろに埋められたらしい。 平重盛は清盛の長男。武勇に優れて清盛の後継者として地位を確立したが、清盛より早く、42歳で死去した。小松殿は、清水寺(京都市東山区)に近い小松谷に別の住まいを構えたことが由来になってい
拙著,『三国志の考古学―出土資料からみた三国志と三国時代―』が,東方書店から刊行されました(東方選書52,本体価格2,000円,4-497-21913-8).本ブログ,このところ画像アップ機能が働かないので,写真はありません.自分が「三国志」をタイトルにした本を書くことになるとは思ってもいませんでしたが,亳州市の曹氏一族墓出土の刻字塼を扱ったのはもう四半世紀も昔のことでした.そしてそれ以来,朱然墓の名刺簡,河西の塼画墓(とくに曹魏末の嘉峪関新城一号墓),そして何よりも長沙走馬楼呉簡などなどとも20年近くつき合って来ました.これらの一次史料群に加え,後代のトゥルファン出土墓誌や敦煌出土鎮墓瓶(銘)などにも登場してもらい,出土資料(その多くは出土文字資料ですが)を最大限活用しながら,三国志と三国時代について考えてみたものです.曹操墓の高陵や朱然墓などからの出土資料にもそれぞれ一章を割きましたが
日本のことを「帝国」と呼んだ戦前の法律 戦前の日本の法令では、日本のことを単に「帝国」と表現することがしばしばあった。例えば、著作権法(明治三十二年法律第三十九号)の第三十一条では、以下のように日本を「帝国」と記していた。 帝国ニ於テ発売頒布スルノ目的ヲ以テ偽作物ヲ輸入スル者ハ偽作者ト看做ス(強調引用者) 著作権法(明治三十二年法律第三十九号)第三十一条 「帝国」という表現の変更 法令中のこうした「帝国」は、戦後の法改正により少しずつ消えていった。例えば、刑法(明治四十年法律第四十五号)ではもともと「帝国内」・「帝国外」などといった表現が用いられていたが、1947年の法改正により「日本国内」・「日本国外」といった表現に改められている。 第一条第一項中「帝国内」を「日本国内」に、同条第二項中「帝国外」を「日本国外」に、「帝国船舶」を「日本船舶」に改める。 刑法の一部を改正する法律(昭和二十二
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