日頃当たり前に使っている言葉、いきなり自分の無知を思い知らされたとしか云いようがない。 twitterのTL上で、ふっと他人様の大仰な理屈を眺めて「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」とつぶやいたところ、 @nean 「牛刀」って、わりと普通の包丁だったりするんだが。 posted at 21:54:03 とのお話が @ogochanさんから*1。調理用具の類にはトンと疎い僕には、これはもちろん驚き。いや、それはなかろうというわけで、さっそくググって見ると、おやまぁたしかにありふれたと見える包丁ばかりがご登場遊ばす。これなら鶏を捌くのに使ったところで大げさってことにはなりそうもない。どうも今日「牛刀」と呼ばれるものは、孔子先生の時代の牛刀とはその出自からして異なるもののようだ。 Wikipedia日本語版で引いてみると結局、ごくごく当たり前の包丁であることしかわからない*2。同じくWikiped
いよいよ間近に迫った近代史上初の譲位。前回の譲位は約200年前の光格(こうかく)天皇の代に行われたが、当時の天皇はどのような存在だったのだろうか。古文書や絵図で江戸時代の朝廷や天皇のあり方をさぐる特別展(江戸時代の天皇)が、東京都千代田区の国立公文書館で開かれている。 (文化部 磨井慎吾) 信長の朝廷認識は? 約260年間続いた江戸時代。その初期と末期とでは、天皇の持つ存在感は大きく異なる。 江戸時代初期は、安土桃山時代からの流れをくむ。そもそも天下統一の道筋を最初に作った織田信長は、朝廷に対しどうしたいと考えていたのか。本能寺の変の直前にあたる天正10(1582)年4~5月にかけて、信長を太政大臣か関白か征夷大将軍かのいずれかに任官させたい(三職推任)という正親町(おおぎまち)天皇の意向に対し、信長側が返答を保留したことを記した公家の勧修寺(かじゅうじ)晴豊の日記「日々(にちにち)記」は
【筆者:Richard Askwith】 1937年10月17日、日曜日のチェコスロバキア。欧州で最も若い民主主義は崩壊寸前だった。何百万という国民が、建国の父であり国家の守護聖人のような存在だったトマーシュ・マサリク元大統領の死を悼んでいる。国境の向こうでは、ナチス・ドイツが国民の不満を扇動し、こちら側への侵攻を狙っている。そんな中で、スポーツ史上最も目が離せないドラマがクライマックスを迎えようとしていた。 この日のパルドゥビツェの街には、おびただしい数の群衆が集まっていた。危機にひんしたこの国で最も有名なスポーツ競技会、障害馬術レースのベルカ・パルドゥビツカを観戦するためだった。ベルカ・パルドゥビツカは、危険度の高い障害物や体力を消耗させる長いダートコースのおかげで、英国の有名な障害レース「グランドナショナル」ですら単調に思えてくるほどの世界最難関のレースとして知られていた。29の障害
大阪市西成区のあいりん地区で労働者の日常を50年前から記録し続ける地元のカメラマン、中島敏(さとし)さん(71)が14日、インターネット上で写真を保存・公開する「フォトアーカイブ」を開設する。1969~95年に撮影した写真およそ1万枚分のネガフィルムをデジタル化し、順次公開する。かつての労働者の暮らしぶりや変わりゆく街並みを伝える貴重な資料で、専門家は「これだけ長期間、定点観測した記録は珍しい」と指摘する。 中島さんは写真の専門学校を卒業後、プロカメラマンの助手になったが、人間関係に悩んで半年ほどで写真家になる夢を諦め、アルバイト生活を始めた。その後の69年、日雇いの仕事を求めてあいりんに移り住んだ。翌年に大阪万博を控えた時代。パビリオン建設などの仕事は高給で、中島さんの日当は3倍になった。
いだてんっていうドラマが放送されているのを知って、かなり昔に聞いたか観たか読んだかした真偽不明の話を思い出した。 明治時代、あるオッさんが人力車の車夫を集め、メダル狙いでオリンピックに出場させようとするんだけど、アマチュアリズム(プロは参加できない)が理由で参加できなかったというものだ。スポーツは貴族のものだったから、車夫なんてもっての外っていう感じである。テレビで観たのか、本で読んだのか、フィクションだったのか、私の妄想なのか全く記憶にない。 この話が明治のフィクションだとは、考えられない。明治の中頃に車夫が物語で活躍することはわりとあったが、その際に好んで使われたモチーフは本を読む車夫というものだ。今は車夫をしているが、学校を卒業して偉くなるぞといった雰囲気で、要するに苦学生を描いているわけである。車夫の身体能力を中心に据えた物語というのはかなり少ないというか、ほぼないような気がする。
■書物への愛、執念伝える 本屋というと、新刊本が並ぶ店先を思い浮かべる。しかし、江戸時代の本屋は基本的に古本屋だった。 「出版もすれば問屋にもなる。新刊も古書も売買する。本に関することは何でもするが、経営基盤は古本業務でした」 これまで注目されてこなかったその実態を、本屋の日記や同業者団体である本屋仲間の記録など多くの史料に当たって究明した。明治初期までに日本で出た「和本」の魅力を伝える著作の4作目となる。 もともと本好きで、学生時代のアルバイトは新刊書店や、出版社の倉庫係。和本などを専門とする東京・神田神保町の古書店・誠心堂書店の娘と結婚して古書の道へ。15年ほど前に大病をして、「世間の皆さんにお役に立つことをしたいと人生観が変わり」執筆に励むことになった。 和本を通じて感じるのは日本人の書物への愛だ。 「『源氏物語』がいま読めるのは、書き写してくれた人たちがいたから。しかも、後代のため
「義馬上石河村春秋墓地」の北東部発掘現場。(資料写真、鄭州=新華社配信/河南省文物考古研究院提供) 【新華社鄭州4月5日】中国河南省三門峡市の管轄下にある県級市である義馬市上石河村でこのほど、西周時代から春秋時代前期の諸侯国「虢(かく)国」の邦墓(ほうぼ、貴族や庶民の共同墓)が見つかり、副葬品2千点あまりが出土した。 「義馬上石河村春秋墓地」で発掘された馬坑(馬を副葬した穴)。(資料写真、鄭州=新華社配信/河南省文物考古研究院提供) 三門峡市文物考古研究所の鄭立超(てい・りつちょう)所長は「今回見つかった『義馬上石河村春秋墓地』の墓葬形式や器物の組み合わせ、装飾文様などは『三門峡上村嶺虢国墓地』のものと良く似ている。出土した銅鼎(どうてい)の銘文と史料の記載から見ると、上石河村の墓地は、虢国の滅亡に伴い東へ逃れた貴族とその家族、護衛に付き従った国人らの墓地だと考えられる」と述べた。 「義馬
散逸資料まとめる 八王子の団体31日発売 庶民芸能「説経節(説経浄瑠璃)」の伝承に携わる八王子市の市民団体「説経節の会」が、昭和の名人・十代目薩摩若太夫の演目を収録したCDを作った。太夫の演目はまとまった資料に乏しく、「幻」とも称されるという。坂田宏之会長(50)は「説経節の裾野が広がるきっかけになれば」と話している。 説経節は仏教説話と三味線の伴奏を組み合わせた語り口調の演目。江戸時代には江戸や大坂などで演じられた。 その後、都市部では廃れたが、関東地方の農村部では今も伝承されている。八王子では、伝統芸能「八王子車人形」の芝居とともに演じられることが多い。 八王子生まれの十代目薩摩若太夫は、歴代の演じ手の中でも名人の呼び声が高い。都指定無形文化財の「説経浄瑠璃太夫」に認定され、舞台やテレビ、ラジオで活躍し、1984年に89歳で死去した。 ただ、太夫の公演に関する資料は散逸した。一部のレコ
国内最古の宮廷庭園跡とされる飛鳥京跡苑池(えんち)(奈良県明日香村)の保存整備や活用方法を検討する委員会が25日、同県橿原市内で開かれ、発掘調査で出土した南池(東西約65メートル、南北約55メートル)の遺構を復元展示する整備プランが示された。県は来年度に正式決定し、平成37年度の完成を目指して工事を進める方針。 飛鳥京跡苑池は飛鳥時代・天武朝の宮廷庭園跡。橿原考古学研究所の調査で、大垣で囲まれた中に中島(なかしま)(東西約32メートル、南北約15メートル)を持つ南池や北池、薬草園などがあったことが判明した。県は南池の遺構を復元展示する計画を立て、専門家でつくる委員会で話し合いを進めている。 整備プランによると、遺構を保護する30センチの盛り土をした上で、池周囲の石積み護岸や石敷きの池底をガラス繊維強化コンクリート(GRC)や同質の自然石で復元。中島の東半分も同様に復元する一方、西半分につい
18日開かれた国の文化審議会で、およそ1300年前の飛鳥時代に造られた奈良県明日香村のキトラ古墳で見つかった極彩色の壁画が国宝に指定されることになりました。 このうち四神は、同じ明日香村の高松塚古墳では失われていた南の方角の守り神、「朱雀」が良好な状態で残っていて躍動感あふれる筆遣いで表現されています。 また、東アジアで最古とされる天文図は、金ぱくで表現した星々を朱色の線でつなぎ、古代中国の星座が描かれています。 古墳に描かれた極彩色の壁画は、高松塚古墳と並んで国内で2例しかなく、日本の古代の絵画史を考えるうえで不可欠な作品例だと評価されました。 キトラ古墳の壁画はカビなどによる劣化のため石室から剥ぎ取られ、修復が進められていましたがその作業が終わり、去年、国の重要文化財に指定されたばかりで、文化庁によりますと1年で国宝に格上げされるのは極めて珍しいということです。 キトラ古墳で最初の壁画
墓室の中央にあるレンガ造りの供物台。出土の時、供物台の上には墓誌が置かれていた。墓室の北西、南西、北東、東南の壁には彩色画が描かれている(安陽市文物考古研究所孔德銘所長提供)。(c)Xinhua News 【3月16日 Xinhua News】中国河南省安陽市で、レンガ彫刻が施された金王朝時代(1115~1234年)の壁画墓が発見された。このほど発表された発掘調査報告によると、墓は独特な設計が施された高僧の墓で、4人が埋葬されており、壁画の内容にはこれまで見られなかった題材が含まれている。河南省の黄河以北で金代高僧の墓が見つかったのは今回が初めてであり、考古学的に重要な価値を持つ。 墓は市内の文峰大道と太行路の交差点の東南角に位置する複合施設、大華時代広場で13号棟の基礎溝工事を行った際に見つかった。墓の発見後、同市文物考古研究所は国家文物局の許可を得て、北京大学考古文博学院と共同で発掘調
地図で確認 先人が伝える災害の教訓 ~新たに地図記号 「自然災害伝承碑:」を制定し災害教訓の周知・普及に取り組みます ~ 国土地理院では、2019年度から「自然災害伝承碑※」の情報を地方公共団体と連携して収集を開始します。集めた情報は、国土地理院のウェブ地図「地理院地図」や2万5千分1地形図に掲載します。当院では本取組を通じて「災害への『備え』」を支援してまいります。 ※自然災害伝承碑:過去に起きた自然災害の規模や被害の情報を伝える石碑やモニュメント ○ 昨年7月の西日本豪雨災害で甚大な被害を受けた広島県坂町では、111年 前に起きた大水害の被災状況を伝える石碑が現地に建立されていたものの、 地域住民にその伝承内容が十分に知られていませんでした。 ○ これを踏まえ、これら全国各地に建立されている自然災害伝承碑の位置や 伝承内容を地方公共団体と連携して収集し、本年6月から国土地理院のウェ
マルクス・アウレリウスの円柱に刻まれた ゲルマン人の会議とされている場面 (出典:Wikimedia Commons) ビールの話である。それこそビールでも飲みながら、どうかお気楽にお読みいただきたい。ローマ時代の歴史家コルネリウス・タキトゥスは、それ以降のローマの歴史家たちが手本とし目標とし原点とした偉大なる人物である。そんな彼の著作のうち、いにしえのゲルマン人社会についての貴重な史料だとされてきた『ゲルマニア』二十三章に、ビールについての一節がある。「飲料には、大麦または小麦より醸造(つく)られ、いくらか葡萄酒に似て品位の下がる液がある。」(泉井久之助訳『タキトゥス ゲルマーニア』岩波文庫一九七九年一〇八〜九頁) 引用した『ゲルマニア』の訳者泉井先生は、ここに注釈をうち「ビールの類である」とし、いくつかの知見を加えているが、その中にこんな一文がある。「タキトゥスはここに、ビールについて
日記の主である紀州和歌山藩士酒井伴四郎は万延元年(1860)当時28歳、25石の下級武士で、上司にあたる叔父・宇治田平三、同僚の大石直助らとともに、装束に関する着用の指導にあたる衣紋方として同年から一年七カ月の江戸勤務についた。日記は万延元年(1860)五月十一日から十一月三十日までの約七カ月である。 直前に大老井伊直弼は暗殺されるわ、紀州藩内も政争で重臣が失脚するわ、アメリカ公使ハリスらをはじめ外国人が来日しはじめるわ、攘夷の嵐が吹き荒れるわで、幕末の江戸は大わらわ・・・なはずだが、下級武士の彼にはそんな激動は特に関係なく、毎日の食生活とか、倹約生活とか、江戸観光でどこ行ったとかの話で占められているのが、実に等身大という感じで面白い。 本書で紹介されるのも大半が彼らが何食ったかである。紀州から江戸への道中だけでもあんころ餅だうなぎだわらび餅だ柏餅だ葛餅だ栗餅だ力餅だと餅ばっかりだけど道中
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