全羅南道で百姓をしていた文(有烈)さんが「日本は戦争に勝たんとならん。国のためだ」とトラックに乗せられ、人さらいのごとく連れ去られたのは昭和15(1940)年2月16日だった。 文さんにとって、この日こそ、あまりにも痛ましい運命の転換点だった。 結婚して4か月しか経っていない5つ年下の妻と妹の3人とも引き裂かれたのだ。 身体検査が終わり、連絡船に押し込まれ、同胞50人と着いたところは福岡県嘉穂郡庄内町の麻生赤坂炭鉱だった。 とくに忘れられないのは、そのころのひもじさ。はじめのころは産業戦士としてもてはやされ、飯はどんぶり盛り、イモの入った汁で、待遇はよいほうだった。 だが、戦局の悪雲が日本をおおいはじめるにつれて飯は7分から5分に、汁はすきとおって、自分の顔が映った。そのうえ労働は15時間。朝のうちに昼弁当までたべてしまい、入坑するときは空弁当をさげていった。 (宮田昭「友よ、筑豊の地底で
![麻生炭鉱で15時間坑内に(文有烈氏)|史実にアクセス/「徴用工」問題を考えるために](https://cdn-ak-scissors.b.st-hatena.com/image/square/c1e7722ec5b8428d09c17ddef056a6e6f1b18aed/height=288;version=1;width=512/https%3A%2F%2Fassets.st-note.com%2Fproduction%2Fuploads%2Fimages%2F34900739%2Fprofile_1dd5489dfff849571bae1994f92434a8.jpg%3Ffit%3Dbounds%26format%3Djpeg%26quality%3D85%26width%3D330)