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東人雑記:上海で最初の日本語新聞『上海新報』 - livedoor Blog(ブログ)
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東人雑記:上海で最初の日本語新聞『上海新報』 - livedoor Blog(ブログ)
上海で最初に発行された日本語新聞は『上海新報』である。長崎出身の松野卯三郎が1890年(明治23)6月5... 上海で最初に発行された日本語新聞は『上海新報』である。長崎出身の松野卯三郎が1890年(明治23)6月5日に週刊紙として創刊した。 それに至る道筋に、日本への金属活字伝来と近代印刷技術の普及の経緯があった。 代々、長崎通詞の家柄に生まれ幕末期に活躍した本木昌造は、長崎製鉄所の責任者となった1860年(明治2)、長崎に私塾を開いた。その年、本木は、上海美華書館の印刷技師だったアメリカ人宣教師ギャンブルを招聘し金属活字の製造法と活版印刷技術を修得した。翌年、本木は私塾に活版製造所を設け、金属活字の鋳造に成功した。さらに次の年、大阪に長崎新塾出張大阪活版所を設立。 1873年(明治6)、本木の弟子の平野富二は東京築地に活版製造所をつくる。ギャンブルから学んだ金属活字の製造法をもとに東京で活字の量産化と利用の普及を行うためであった。折から政府の布達文、新聞の印刷などの需要が急増したことから事業利益