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公的自我理想の背後にある猥褻な超自我
我々は、公的法とその幻想的支え(猥褻な超自我による補填)とのあいだの緊張を置き残して、社会の革命... 我々は、公的法とその幻想的支え(猥褻な超自我による補填)とのあいだの緊張を置き残して、社会の革命的夢に執着すべきだろうか。そもそもこの緊張は削減しえないものなのだろうか。もし削減しえないなら、諦観し切った保守派の結論をいかにして避けうるというのか? 保守派の言い草とは、どの革命的動乱も、その猥褻な生得の逸脱を通して再生産される専横的秩序の新しいヴァージョンで終わるというものだ。歴史の教訓は、この逆戻りの不可避性を確証しているように見える。(ロレンツォ・キエーザ2004, Lorenzo Chiesa, “Imaginary , Symbolic and Real Otherness) ーーという文を拾ったので、以下、「自我理想と超自我の相違(基本版)」補遺メモ。 ロレンツォ・キエーザの問いは、ジジェクによれば(『パララックス・ヴュ―』)、ラカン派政治理論の鍵となる問い。 1968年の学園紛