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文芸空間 東浩紀『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(2)
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文芸空間 東浩紀『存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて』(2)
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて 本書の帯には、「否定神学システムを超えて複数的な超越論... 存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて 本書の帯には、「否定神学システムを超えて複数的な超越論性へ」とあった。 「否定神学」と「複数」という言葉は、論中で繰り返し出てくる重要なキーワードなよう。 キリスト教の「神」は「単数」なわけだね。 ラカンは否定神学であり、だめさ。 あれは否定神学であり、だめさ。 これも否定神学であり、だめさ。 そういう話がしばしば出てくる。 でも、これ、本当に「否定神学」という語を使う必要があったのかな。 「否定神学」の「神」の語が気になる。 「神」の語についての解説がなされていないし。 それに、『存在論的、郵便的』というタイトル。 「存在論」とは何か。 ハイデガー以降の「存在論」しか、論の対象にされていないようであるのはいかがなものか。 デリダって、ヘーゲルとは関係ないのだっけ。 ギリシャ以来の存在論の歴史を、おさえないで論じちゃっていいのかな。 『存在論的、