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伊藤博文と山県有朋 二人共一応吉田松陰門下ということになっているが師への思いは大分違う。伊藤は松陰... 伊藤博文と山県有朋 二人共一応吉田松陰門下ということになっているが師への思いは大分違う。伊藤は松陰門下と言われるのを喜ばなかったという。松陰の伊藤評価が高くないことを自身知っていたからに違いない。松陰は友人への紹介状で「周旋の才あり」と評価したのではないかと意外に思われる人もいるかもしれない。だがこの伊藤評価には前段がありそこでは「この男才劣り学幼きも」と書いてある。全体として決して高い評価とは言えない。松陰の高杉晋作や久坂玄瑞評価と比べれば一層はっきりする。この二人に吉田稔麿、入江九一を加えて松陰門下の四天王と呼ぶ。四人とも生きて維新を見ることはなかった。伊藤が初代内閣総理大臣になった時郷里の人は「吉田稔麿が生きていれば初代内閣総理大臣は伊藤ではなく稔麿だったろう」と囁きあったそうである。ここからも松陰門下に如何に人材が多かったかが分る。 伊藤にとっては松陰より高杉との関係が重要だ。だが