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藤原道長が押し込んだ元号「寛仁」(2ページ目)|生かす人材|日経BizGate
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藤原道長が押し込んだ元号「寛仁」(2ページ目)|生かす人材|日経BizGate
次は三条天皇が即位した翌年の改元(1012年、寛弘9年)だ。このときの議論は、元号候補の「太初」は中国... 次は三条天皇が即位した翌年の改元(1012年、寛弘9年)だ。このときの議論は、元号候補の「太初」は中国で不祥事が多い、「政和」は秦の始皇帝の名(政)と重なるなどの理由で次々に外されていった。「長和」は、まあ合格ではないかと権大納言の藤原行成が発言したが、「和」の字はよくない、、本来は元号に使うべきでないと他の公卿が反対した。会議は袋小路に入ってしまった。 そこで好機到来とばかり、議長役の道長は前回の最有力候補である「寛仁」を持ち出した。しかし今回の候補に上がっておらず、提出されていないものを選ぶことはできないと、会議メンバーから総スカンを食らった。道長に劣らず公卿らにとっても、元号選定はゆるがせにできない重要事だった。当時、道長は娘を天皇の后とし、最高の権力をふるう存在だったが、それでも一致して抵抗したのだ。結局、比較的反対の少なかった長和に決まった。 ここで諦めては、権力を長く維持できな