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宮田恭子『ルチア・ジョイスを求めて』(3) - 越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa
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宮田恭子『ルチア・ジョイスを求めて』(3) - 越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa
白眉は、本書の後半にやってくる。 ルチアはバレエの道を突然放棄してしまう。 ひそかに恋心を寄せたベ... 白眉は、本書の後半にやってくる。 ルチアはバレエの道を突然放棄してしまう。 ひそかに恋心を寄せたベケットには冷たくあしらわれ、「無反応の硬直」状態に陥る。 父はそんな娘に中世の写本に見られる装飾文字(レトリヌ)を習うことを勧める。 著者は、アイルランドに由来する福音書の写本『ケルンの書』の装飾文字を仔細に検討したうえで、 『ケルンの書』のウルトラ・バロックとも称すべき過剰装飾の特徴がジョイス文学や、 ルチアが父の詩集にほどこした装飾文字にも見られるとして、 ルチアの創造的な仕事をケルト文化の伝統の中に位置づける。 著者は、天才作家ドストエフスキーについて述べた父ジョイスの言葉を引いている。 いわく「分別だけの人間は何ごともなしえない」と。 この言葉は、大作家の娘というプレッシャーと戦いながら、ルチアの成し遂げた仕事に対して、 本書が託したメッセージでもあるような気がする。 (『北海道新聞』