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肥後国人一揆 - Wikipedia
守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続いた。天正年間の一時期、肥後国は... 守護菊池氏の衰退の後、戦国時代に突入した肥後国は国人割拠状態が続いた。天正年間の一時期、肥後国は島津氏の支配下に置かれたが、天正15年(1587年)5月、豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、島津氏は圧倒的な軍勢の前に屈服、薩摩・大隅に押し戻された。同年6月、52人の肥後国人が秀吉から所領を安堵され、肥後国を拝領した佐々成政の家臣団に組み込まれることになった(九州国分)。しかし、一刻も早い肥後の領国化を望んだ成政が性急に検地を進めたため国人の不満が爆発することになったとする[1]。 一方、近年の新説として出されているのは、九州国分そのものへの肥後国人の反発が原因であったとする説である。肥後国では、天正年間に入ってから島津氏の北上を背景に親島津側の国人と親大友側の国人が激しく争ってきたが、最終的に島津氏が肥後全域を占領し、親大友側の国人を島津軍に領地を差し出して降伏することを余儀なくされていた。