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「玉匣両温泉路記」より生麦付近の道筋について
地誌のはざまに 神奈川県を中心に、また江戸時代前後を中心に、その地誌を掘り返して話題を取り上げてい... 地誌のはざまに 神奈川県を中心に、また江戸時代前後を中心に、その地誌を掘り返して話題を取り上げていく予定です。関連する自作、他作の動画なども取り上げます。 TOP ALL Entry RSS tweet Facebook Hatena blog LOGIN blog Making 「新編相模国風土記稿」の産物の調査が思う様に進んでいないので、再び「玉匣両温泉路記(たまくしげふたついでゆみちのき)」(天保10年・1839年)から軽い話題を取り上げて間を繋ぎます。今回は、箱根へ向かう途上、原正興(はらまさおき)一行が東海道を逸れた箇所を検討します。 同年の4月14日(グレゴリオ暦:5月26日)に江戸を発った一行は、鶴見に差し掛かった所で東海道から外れた道筋を進んでいます。そのくだりは次の様に記されています。 此駅(注:川崎宿のこと)を出はなれて十杖(とつゑ)(丈)あまりの板橋あり。是を鶴見橋と
2015/06/15 リンク