エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
言語における使用価値と交換価値のアナロジー - 数学屋のメガネ
記事へのコメント0件
- 注目コメント
- 新着コメント
このエントリーにコメントしてみましょう。
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
言語における使用価値と交換価値のアナロジー - 数学屋のメガネ
シカゴ・ブルースさんの「貨幣の使用価値」というエントリーを読んで、自分の論理というか、言葉の使い... シカゴ・ブルースさんの「貨幣の使用価値」というエントリーを読んで、自分の論理というか、言葉の使い方である語彙に混乱があるのに気がついた。交換価値と言うべきところで使用価値という言葉を使ったりしているような気がした。これは、頭の中では思考が先へ行っていたにもかかわらず、表現がそれに追いつかずに、言葉が混同してしまったようだ。 そこでもう一度、言葉の使い方に気をつけながら、自分が何を言いたかったのかを考えてみたい。言いたいことの中心は僕がソシュール的だと思ったもので、具体的な国語の違いから来る言語規範のずれが、思考のずれにも影響を与えると言うことだ。これは、ソシュール的と表現はするものの、ソシュール自身が語ったかどうかは分からない。内田さんが紹介するソシュールの言説を基に、そのようなものだろうと僕が想像したものだ。 言語規範のずれを、語義がかぶっているにもかかわらず意味に違いがあると言うことか