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堺大空襲71年:忘れぬ黒焦げの母 97歳、語り継ぐ決意 | 毎日新聞
太平洋戦争末期の1945年7月10日、堺の街は米軍機の空襲で焼き尽くされた。死者1860人、全焼... 太平洋戦争末期の1945年7月10日、堺の街は米軍機の空襲で焼き尽くされた。死者1860人、全焼家屋1万8009棟。「堺大空襲」から71年になるが、当時26歳だった汐見や寿子さん(97)=堺市堺区=は、母を捜して歩いた日を思い出す。妊娠4カ月の体をかばいながら歩き、焦土で見つけたのは、変わり果てた母の姿だった。「苦労をちゃんと知らないと、戦争はあかんと言えない」。体験を子供や孫に伝えたいと思っている。 汐見さんは堺で生まれ、母の小種さん、大伯母と3人で暮らし、夫と結ばれてからは東京・杉並に移った。45年6月、米軍機が投下した大量の焼夷(しょうい)弾が東京を襲った。杉並の家のそばにも焼夷弾が落ちてきた。堺も空襲に遭うのではないか。心配になり、実家に帰った。
2016/07/09 リンク