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【戦国こぼれ話】細川幽斎の新資料が発見。関ヶ原合戦における田辺城の攻防が意味するもの(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース
京都府立山城郷土資料館(京都府木津川町)で特集展示「細川幽斎の新資料」が開催されている(5月23... 京都府立山城郷土資料館(京都府木津川町)で特集展示「細川幽斎の新資料」が開催されている(5月23日まで)。幽斎が和歌に優れていたことは承知のことであるが、関ヶ原合戦における田辺城の攻防も有名である。その際の逸話について考えてみよう。 ■細川幽斎とは 最初に、細川幽斎について、簡単に触れておこう。幽斎が生まれたのは天文3年(1534)。もとは、藤孝と名乗り、足利将軍家に仕えていた。長岡姓を称したこともある。のちに足利義昭が織田信長と対立すると、幽斎は信長の配下に加わった。 天正10年(1582)6月に信長が本能寺の変で横死すると、以後は羽柴(豊臣)秀吉の配下になった。そして、剃髪して「幽斎玄旨」と名乗ったのである。 幽斎は和歌に優れ「古今伝授」を受けていた。『詠歌大概抄』、『九州道の記』、『東国陣道の記』、『衆妙集』、『伊勢物語闕疑抄』などの著書もあり、有職故実にも通じていた。当代随一の知識
2021/03/05 リンク