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もう一人のジョン万次郎 音吉の話 その1|三浦陽一
土佐の漁師の子だった中浜万次郎(通称ジョン万次郎 1827-1898)が、漁に出て遭難し、米船に救われてア... 土佐の漁師の子だった中浜万次郎(通称ジョン万次郎 1827-1898)が、漁に出て遭難し、米船に救われてアメリカで教育をうけ、帰国して幕府に用いられて、翻訳などにあたった話はよく知られている。 万次郎とは少しちがう人生をたどった漂流民に、音吉(おときち)がいる。 1832年、三重県鳥羽浦を出帆した千石船の乗組員14名は遠州灘で遭難。漂流14ヶ月の末、アメリカワシントン州の岬に漂着。生存者は14歳だった音吉をふくむ3名だった。 音吉ら3名は原住民の奴隷になり、イギリス人に救出されたあと、ハワイ、南米、イギリスを経由して、中国のマカオに到着した。 1836年、アメリカの貿易会社が、音吉ら漂流した日本人7名を貨物船モリソン号にのせて日本に向かった。 しかし江戸湾と鹿児島湾で日本側から砲撃にあい、音吉らは日本の地を踏めなかった。「異国船打ち払い令」の時代であった。 音吉は上海に住んでイギリスの貿易