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選択と決断:現存在であるところの人間が、「わたしは、わたし自身の生を生きている」と言うことのできる根拠とは何か - イデアの昼と夜
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選択と決断:現存在であるところの人間が、「わたしは、わたし自身の生を生きている」と言うことのできる根拠とは何か - イデアの昼と夜
さて、私たちは読解を進めてゆくにあたって、なぜハイデッガーが『存在と時間』において「良心の呼び声... さて、私たちは読解を進めてゆくにあたって、なぜハイデッガーが『存在と時間』において「良心の呼び声」なるテーマについて論じたのか、その必然性を理解すべく試みてみることとしたい。その上で押さえておく必要があるのは、以下のような論点なのではないかと思われる。 論点: 『存在と時間』の後半部の議論の主要モチーフの一つとは、「決意によって、自己を取り戻すこと」に他ならない。 ここには、「私たち人間存在にとって、生きるとはいかなることか?」という問いに対して、20世紀の哲学が提出した決定的な応答の一つがあると言うこともできそうである。ハイデッガーの議論を、ここに再構成してみることにしよう。 これまでの読解において示されたところによるならば、現存在であるわたしは、日常性の次元においては〈ひと〉のうちへと喪失されているのだった。すなわち、日常におけるわたしは立ち止まって考える間もないままに、〈ひと〉と同じ