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阪田三吉|勉強嫌いで将棋好き、貧しさの中で磨いた無類の棋力【将棋界「鬼才」列伝その1】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
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阪田三吉|勉強嫌いで将棋好き、貧しさの中で磨いた無類の棋力【将棋界「鬼才」列伝その1】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
対局中の阪田三吉。阪田は自分の大局観を《わては五重塔の上に立っとるさかい、大阪中の火事がみんな見... 対局中の阪田三吉。阪田は自分の大局観を《わては五重塔の上に立っとるさかい、大阪中の火事がみんな見える》と表現した。写真:毎日新聞社 阪田三吉は頭が人並み外れて大きかった。それもいわゆるサイヅチ頭。頭頂部が平べったくて、ハチが張っている。当の本人曰く。 《頭の大きいのは賢人の証拠やそうやが、ワシの頭は将棋ばかりで、外になんにもない》 自慢の裏返しではなかろう。素朴な謙遜の中に、我知らず仄かなユーモアが香る。そういう人柄であったようだ。 律儀でお洒落れ、後輩たちにもやさしい。《将棋指しは体が大事や。体をつくらにゃあかんで》と独自の健康法を説き、記録係には「これ取っとき」と手の切れるような5円札の入った封筒を差し出す。少年時代の大山康晴もこの恩恵に与あずかっている。 明治3年6月3日、和泉国大鳥郡舳松村(現・大阪府堺市)の生まれ。家業は草鞋の表づくりだった。明治9年、小学校に入学するが半年ほどで