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第6回 都営三田線〜欲望と裏切りに翻弄された悲劇の路線 | 東京史楽
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第6回 都営三田線〜欲望と裏切りに翻弄された悲劇の路線 | 東京史楽
5号線分岐線計画の変遷 今回は都営三田線のお話です。都市計画上では正式には都市高速鉄道6号線と呼ばれ... 5号線分岐線計画の変遷 今回は都営三田線のお話です。都市計画上では正式には都市高速鉄道6号線と呼ばれるこの路線は、様々な計画に翻弄されつづけた悲劇の路線でした。 前回、当初計画5路線の話をしました。1970(昭和40)年の段階で1925(大正14)年の計画ルートはほぼカバーされましたが、よく見ると、巣鴨から都心に直結するルートだけが漏れています。 このルートは1956年の地下鉄計画で、(1)水色の実線部分が5号線の分岐線として復活します(大手町〜下板橋間)。この区間の建設を熱望したのは東京都でした。元々このルートの地上には都電が走っており、自動車交通の増加は大きな問題になっていたからです。1960年に東京都は5号線分岐線免許の譲渡を申し入れ、それを踏まえて1962年の地下鉄計画改定では5号線の分岐線ではなく、(2)水色の点線のように独立した「6号線」として位置付けられることになります。都電