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関ヶ原の戦い「本当の裏切り者」は誰なのか?
そもそも吉川広家の西軍参加は、自らの意思でなく「行きがかり上、仕方なく」でした。 当初、彼は家康の... そもそも吉川広家の西軍参加は、自らの意思でなく「行きがかり上、仕方なく」でした。 当初、彼は家康の「上杉討伐」に合流しようと出陣するところでした。ところが、石田三成が突如挙兵し、本家の毛利輝元が総大将に担がれたため、同族の吉川広家も仕方なく西軍の一員となったのです。 しかし、「西軍に勝ち目はない」とみていた広家は、親しかった東軍の武将、黒田長政を通じて家康に内応、それと引き換えに「毛利家の存続」を家康に約束させていました。この黒田長政は、小早川秀秋にもたびたび内応の約束を促していました。 関ヶ原の裏切りが「明治維新」につながった 明治時代初期、陸軍大学校の教官に招かれて来日したドイツの軍人メッケル少佐は、関ヶ原での両軍の布陣を見るや、「西軍の勝ち」と即座に答えたそうです。 関ヶ原開戦までの石田三成による采配は見事で、戦いが彼の予定どおりに、つまり小早川秀秋の裏切りがなければ、関ヶ原ではほぼ