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[5]1970大阪万博――理念の舞台裏 - 菊地史彦|論座アーカイブ
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[5]1970大阪万博――理念の舞台裏 菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニ... [5]1970大阪万博――理念の舞台裏 菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師 「基本理念」の作成 人々を惹きつけた「世界」と「未来」は、ではどのように準備され、構築されたのだろうか。テーマ決定と開催申請を超短期間で乗り切った初期から、プロデューサーの選出を含むテーマの具現化へ向かった中期まで、かかわった人物とその行動をたどってみたい。そのプロセスのどこで、何が、どのように論議され、かたちを成していったのか。大阪万博の「世界」と「未来」を考える上で、我々は一通りのことを知っておく必要がある。 1965年9月、大阪国際博覧会準備委員会(後の万博協会)は、11月のBIE(博覧会国際事務局)の理事会への正式申請・登録に向けて、万博の「統一テーマ」を検討・起草するテーマ委員会を立ち上げた。 委員長は茅誠司、副委員長は桑原武夫、委員には井深大、大佛次郎、