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同じ苦しみ知る人「つながりたかった」被害者連帯の時代:朝日新聞デジタル
「あの頃は、PTSDという言葉も被害者支援の認識もなくて。疎外感を感じました」。東京の立教女学院... 「あの頃は、PTSDという言葉も被害者支援の認識もなくて。疎外感を感じました」。東京の立教女学院短大で昨秋、美谷島(みやじま)邦子(70)が講演した。若い世代に「いのちの授業」として、事故からの歩みや安全への思いを話している。 1985(昭和60)年8月12日、夏休みでほぼ満席だった羽田発伊丹行き日航機が群馬県の御巣鷹(おすたか)の尾根に墜落し、520人が亡くなった。9歳の息子・健がそのなかにいた。 「お茶わんのなかにも涙がぼとぼと落ちて」 遺族らがたちあげた8・12連絡会の事務局長を引き受けた。怒濤(どとう)の日々。取材で健のことを聞かれて泣いてトイレに駆け込み、事務局長をやる以上は健のことは話さないと決めた。 ほかの遺族から「死にたい」と電話が入る。どうしていいかわからず、「いのちの電話」のボランティア研修を受けた。 喪の悲しみは封印する時代だった。アメリカで生と死をめぐる動きを学んだ
2018/01/09 リンク