エントリーの編集
![loading...](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/common/loading@2x.gif)
エントリーの編集は全ユーザーに共通の機能です。
必ずガイドラインを一読の上ご利用ください。
記事へのコメント3件
- 注目コメント
- 新着コメント
注目コメント算出アルゴリズムの一部にLINEヤフー株式会社の「建設的コメント順位付けモデルAPI」を使用しています
![アプリのスクリーンショット](https://b.st-hatena.com/bdefb8944296a0957e54cebcfefc25c4dcff9f5f/images/v4/public/entry/app-screenshot.png)
- バナー広告なし
- ミュート機能あり
- ダークモード搭載
関連記事
ミシェル・フーコーの人間学批判—実存と実践の哲学—(手塚 博) │ 東京大学文学部・大学院人文社会系研究科
本論文『ミシェル・フーコーの人間学批判――実存と実践の哲学』には、次の二つの意義がある。第一の意義... 本論文『ミシェル・フーコーの人間学批判――実存と実践の哲学』には、次の二つの意義がある。第一の意義は、ドゥルーズの著作『フーコー』以来、いくつかの「断絶」や「袋小路」が存在するとされてきたフーコーの思考を、人間学批判という一貫した主題によって導かれたものとして提示したことである。フーコーは、晩年の『快楽の活用』(1984)に至って、「知」「権力」「主体性」という三つの諸要素の相関関係によって「経験」が構成されるとしたが、この主張に至る過程で、それらの諸要素を分離したうえで一つずつ検討する作業が為されたのである。『言葉と物』(1966)では人間学の内的構成を主題とし、『監視と処罰』(1975)で開始された権力の分析論においては人間学成立の条件が検討され、『知への意志』(1976)に始まる『性の歴史』においては「人間」一般ではなく、「具体的な実存」としての主体を思考の対象とするための作業が為さ
2011/12/27 リンク