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【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(49)その生涯編・滝川事件(1/2ページ)
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【湯浅博 全体主義と闘った思想家】独立不羈の男・河合栄治郎(49)その生涯編・滝川事件(1/2ページ)
自由の外堀が埋められた帰国早々の河合栄治郎を待っていたのは、帝国大学の危機であった。時の文部大臣... 自由の外堀が埋められた帰国早々の河合栄治郎を待っていたのは、帝国大学の危機であった。時の文部大臣、鳩山一郎による京都帝大総長の小西重直に対する勧告からはじまった。それは法学部教授、滝川幸辰を罷免するよう求めるものだった。世にいう滝川事件である。 ことの発端は昭和7(1932)年に、滝川が中央大学法学部で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」という演題の内容にあった。文部省や司法省内に、滝川の講演があまりに無政府主義的であるとの批判が起きた。 これを機に、帝大法学部の「赤化教授」追放の声がにわかに高まった。直接的には、滝川の『刑法講義』『刑法読本』の発禁処分をきっかけに、台頭しつつあった右翼勢力が火をつけていた。 小西総長も教授会もこぞって拒否したが、文部省は5月になって文官高等分限委員会を開くと、強引に滝川の休職処分を決定してしまった。 休職処分が発令されると、これに反発す