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【軍事のツボ】23区内になお残る帝都防空飛行場の忘れ形見(上)
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【軍事のツボ】23区内になお残る帝都防空飛行場の忘れ形見(上)
1944年9月24日撮影の成増飛行場。造成中だが、まだ滑走路などは見えない (国土地理院ホームペー... 1944年9月24日撮影の成増飛行場。造成中だが、まだ滑走路などは見えない (国土地理院ホームページから。トリミング加工しています) 1942(昭和17)年4月18日、東京は米軍による初空襲に見舞われた。B-25中型大型爆撃機16機による「ドゥーリトル空襲」だ。奇襲を受けた日本軍はその後防空体制の整備をすすめる。帝都防空の要となったのは、陸軍の調布、成増、海軍の厚木、横須賀の各飛行場に展開する迎撃戦闘機だった。このうちドゥーリトル空襲を契機として作られた成増飛行場は、23区内唯一の飛行場。現在では約2万8000人が暮らす巨大団地に姿を変え、存在が忘れられつつあるのだが、この飛行場の忘れ形見が思わぬ形で残っている。 42年4月18日のドゥーリトル空襲は、空母から米陸軍のB-25中型大型爆撃機16機を発進させるという奇想天外な作戦による日本本土初空襲であり、東京初空襲でもあった。その後、日本へ