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涌谷町/わが町涌谷の歴史~その3奈良の大仏と涌谷の金
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涌谷町/わが町涌谷の歴史~その3奈良の大仏と涌谷の金
更新日:2013年8月22日 わが町涌谷の歴史~その3:奈良の大仏と涌谷の金 1、大仏建立と小田郡の貢金 奈良... 更新日:2013年8月22日 わが町涌谷の歴史~その3:奈良の大仏と涌谷の金 1、大仏建立と小田郡の貢金 奈良東大寺の大仏は聖武天皇の発願により、律令国家が膨大な国費をつぎ込んで完成した一大事業でした。 天平21年(749)の早春、大仏本体の鋳造が秋には完了するメドがたったというのに、仏体を鍍金する金の量が決定的に不足していました。遣唐使の派遣も検討されるほど深刻な事態でした。しかしその2月、絶妙のタイミングで陸奥守百済王敬福(むつのかみくだらのこにきしきょうふく)が、小田郡で黄金を発見したことを報告しました。 このことは『続日本記』に 陸奥国始めて黄金を貢る。 ここに幣を奉りて幾内・七道の諸社に告ぐ と記されています。 この報せに政府は歓喜し、大赦、2度の改元(天平感宝・天平勝宝)、さらに田租・調庸の減免など次々と喜びの政策を打ち出しました。百済王敬福をはじめ官人への叙位も大々的に行われ