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エピステモロジー(11)
これまでに体験した二つの文化の対 <科学と哲学、日本とフランス> のインターフェースから見える世界... これまでに体験した二つの文化の対 <科学と哲学、日本とフランス> のインターフェースから見える世界について綴ります 認識論的正当化(5) 問(2):認識論的正当化に対する回答は知識の定義を経るのか この問に対するポジティブな反応の一つの前提は、ピーター・ギーチが「ソクラテス的詭弁」と呼んだものである プラトンの対話篇で、ソクラテスはある「もの・こと」を定義できなければ、それを知ったことにはならないと主張 つまり、何が美しいものなのかを知るためには、美とは何であるのかを知らなければならない 同様に、正しいことを知るためには正義を、信心深い行動を知るためには信仰心を定義しなければならない 多くの哲学者は、それが彼らに立派な役割を与えるという理由で、簡単に信じてしまった 知っていると主張する人に何も知らないことを示し、定義の専門家を自称するのである しかし、子供はどちらも定義できないのに、父親と