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承久の乱2.後鳥羽上皇御謀反
承久三年(1221)五月十四日、後鳥羽上皇は全国にお触れを出した。 「城南寺(じょうなんじ。現在の城南宮... 承久三年(1221)五月十四日、後鳥羽上皇は全国にお触れを出した。 「城南寺(じょうなんじ。現在の城南宮。京都市伏見区)で流鏑馬ぞろえをやるからみんな集合!」 ウソであった。 本当のねらいは倒幕のための兵の召集であった。 それは翌十五日に後鳥羽上皇・順徳上皇父子が執権・北条義時追討の院宣(いんぜん。上皇の命令)・宣旨(せんじ。天皇の命令)を発したことから明らかである。 按察使(あぜち。地方行政監察官)・葉室光親(はむろみつちか。藤原光親)は早くに気づいて反対していたが、改めていさめた。 「お止めください!」 光親は藤原宗行の従兄弟で、彼もまた有力な院近臣の一人である。 「天下を治める方が自ら天下を乱してはなりませぬ!」 順徳上皇が言い放った。 「乱しているのは義時の方ではないか!」 順徳上皇は父と共に陰謀に専念するため、この年に子・仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう)に譲位していた。 黙ってし
2013/12/05 リンク