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根津公子 : 私の教育活動と「日の丸・君が代」、そして裁判
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根津公子 : 私の教育活動と「日の丸・君が代」、そして裁判
根津公子 私は1971年に江東区大島中に着任し、76年に八王子市に異動。城山小、80年から横川中、90年から... 根津公子 私は1971年に江東区大島中に着任し、76年に八王子市に異動。城山小、80年から横川中、90年から石川中を経て、2000年多摩市多摩中、03年調布市調布中、04、05年立川市立川二中、06年町田市鶴川二中、07年都立南大沢学園特別支援学校、08年から都立あきる野学園に在職し11年定年退職となった。03年からは常に定数外の「過員配置」とされ、都教委は1年での異動を企んだ。立川二中とあきる野学園が1年ではなかったのは校長が都教委とたたかってくれたおかげだった。 私の教育活動に対する都教委のはじめての処分が94年。そうした私を都教委は、01年に「指導力不足等教員」に仕立て上げようと、08年2月にはトレーナー着用で分限免職(?)を、08年には「11月には根津はいなくなる」ことを画策した。わずかながらに残していた、「教育の自由」を都教委が教員から奪い、教育の国家支配を強めた結果である。 1