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2023年5月4日のブックマーク (5件)

  • 他人からの励ましやアドバイス - yuhka-unoの日記

    精神科医のことを「うぜぇ」と思ったときがある。「これは私の考えなんだけど」と前置きして、「人生は暇つぶしだと思うの」「経験は何でも糧になると思う」とアドバイスされた時だった。 私は頷きながら聞いて納得しているふりをしていたけど、内心では「ああ、よくある陳腐な言葉だな」としか思えなかった。 「人生が暇つぶしだったら、私別に今のままでいいやん。今のままでも十分に暇潰せてるし。でも、今のままじゃ嫌で、自分の人生を生きたいからここに来てるんだよ。」 「糧になるとか、そんなもん誰にもわからんやろ。経験が生かせるかどうかはその後の運次第な面もあると思うし、結局トラウマにしかならない経験だってあるんじゃないのか。」 …と、そんなことを思った。 そして何より思ったのは、「当に私の血肉になるような言葉は、私は自分で見つけられるから、別にわざわざあなたに言ってもらわなくても結構です」ということだったね。私の

    他人からの励ましやアドバイス - yuhka-unoの日記
  • 自己犠牲という暴力 - yuhka-unoの日記

    自己犠牲的精神の持ち主は、助けてあげると言いつつ、なぜか重くのしかかってくる。 例えば、もし自分の親が自己犠牲的精神の持ち主で、「あなたのことは、私が全部背負ってあげる」「私さえ我慢すれば、それで良いの」と言いながら、ボロボロになっていたら、その親を見る子供の気持ちはどうだろうか。 子供は「親は自分のせいでこうなっている」と、親に対して罪悪感を抱き、「自分で背負えるものは自分で背負いたいのに」と、自分の気持ちが無視されているように感じ、親の「優しさ」に重さを感じるだろう。 相手の気持ちを無視し、罪悪感を抱かせ、そして重い。これは「困った親」に共通した特徴だ。助けるはずの相手にのしかかって押さえつけている。 自分には限界がある。自分には、自分にできる範囲のことしかできない。自分以上のものになろうとするから色々とおかしくなる。子供を虐待する親も、自分以上の「良い親」になろうとして、自分の理想像

    自己犠牲という暴力 - yuhka-unoの日記
  • 「女」は捨てないけど「女像」は捨てるよ - yuhka-unoの日記

    女は、男と付き合う前に、一度男に絶望しているからだと思う。 http://anond.hatelabo.jp/20101202125030 「今度生まれてくるとしたら、女の子と男の子のどちらがいいですか?」という質問では、小学生も中学生も男子は5%以内しか「女の子」を選びません。 男子にとって「女の子」であるということは、あまり魅力的ではないようです。 小学生では女子が「女の子」を選ぶ割合は高いのですが、中学女子では「女」を選ぶ割合が低くなります。 かわいさに価値を置いていた小学生時代から、「女」であるが故の社会的価値の低さを実感するようになるからではないでしょうか。 http://blog.4en.jp/nposean/1/article/78/ 今のお上品(笑)な私しか知らない人からは以外に思われるだろうけど、私は思春期の頃、いわゆる「俺女」だった。態度もガサツだった。意識的にそうして

    「女」は捨てないけど「女像」は捨てるよ - yuhka-unoの日記
  • 甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち - yuhka-unoの日記

    子供に与えなさすぎる親というのが、子供にとって快適ではないということは、多くの人が納得するところだろう。ネグレクト(育児放棄)というやつである。しかし、子供に与えすぎる親というのもまた、子供にとって快適ではないケースが多いというのは、あまり知られていないことだ。「過保護なのは確かに子供の成長にはマイナスだが、当の子供にとっては快適なこと。親元にいるのがあまりにも快適すぎて、そこから抜け出せなくなるから、自立心が養われない」―そのように考える人が多い。 しかし、与えすぎる人というのは、ありがた迷惑なことが多いのだ。例えば、こちらが「いえ、もう結構です。もう満腹なんです」と言っても、「そんなこと言わずに、ほらほら」と、どんどんべ物や飲み物を勧めて来る人。こういう人は、こちらがやんわりと断っているうちは進めるのをやめてくれず、とうとう強い口調でぴしゃりと断らなければならない段階になってやっとや

    甘やかされているようで全然甘えられていない子供たち - yuhka-unoの日記
  • 自分が嫌われたくない人の気遣いは、「いじめ防衛的気遣い」 - yuhka-unoの日記

    母の、自分が嫌われないための気の遣い方について、色々と考えたところ、あれは、いじめがあるクラスによくある、どこかのグループに属していないといじめられるという雰囲気になった時の、グループ内での気の遣い方に似ていると思った。 相手のための思いやりではなく、ひたすら衝突を避けて、笑顔の仮面の下で、排除される恐怖に怯えている。表面上仲良くしているようで、その実相手のことが嫌いだという、あの感じだ。 おそらく、母の世界観では、社会はこのいじめが蔓延しているクラスのようなものであり、少しでも相手の機嫌を損ねてしまうと、悪く言われてしまうような、そのような考えで生きているのだろう。つまり、母がしているような、自分が嫌われたくないからする気遣いは、いわば「いじめ防衛的気遣い」なのだ。 もちろん世の中には、そういう雰囲気になっている集団はある。私も経験したからわかる。しかし、世の中の全てがこうというわけでは

    自分が嫌われたくない人の気遣いは、「いじめ防衛的気遣い」 - yuhka-unoの日記