道の向こう側からよそ見しながらこちらに歩いてくる人がいたら「よそ見」を しないで歩いている人が避けなくてはいけない。 いや避けるでしょう。 理不尽と言えば理不尽だけど「そんなもの」だと思うのですね。 まっすぐ道を歩くという事は気が利くということです。世の中は道路と違って 見えてはいませんから、そういう「道が見えている」ということは道理にきが ついていて「見えない道が見えている」という事です。 さらに言えば気が利くとよそ見していても「前から来る人の気配」を察するで しょうからおのずと避ける回数も増えます。 気が利くということは、つまりそういう理不尽と戦わなくてはいけない。 こう書いているからといってわたしが『気が効いててほんと毎日大変です。』 と言いたわけではありません。 想像がつくから書いているだけの事です。 言えるのは「気が利く人」が、その大変さを話してもほとんど理解されないで しょうね
Yahooの「知恵袋」の中に『プロダクトデザイナーになりたい。』という質問 があります。 結構その「問い」は反響が大きかったようで「プロダクトデザイナー」の検索 でも上位に位置しています。 問いも答えもなんだか切ないというかそれを見た人があまりしあわせを感じな い内容かと思うので、わたしなりに「回答」をしてみようと思いました。 まず「プロダクトデザイナー」というのは資格ではありません。 明日から「わたしはプロダクトデザイナーです。」と名刺を作ってもだれも文 句は言わないというか言えないと思います。 いやまず「プロダクトデザイン」ってなんのかを自分なりに掘り下げて考えて みる必要があります。 わたしは「中学生のためのプロダクトデザイン入門」でこう書きました。 「ひとの気持ちがわからないとできない仕事」だと。 逆にいえば「ひとの気持ちがよくわかる人」はおおいにこの仕事に向いていま す。 わたし
昨日、名古屋国際デザインセンターから封筒が届きました。 そこには第7回名古屋国際コンペティション「名古屋デザインDO!2010」の 作品募集がはじまったというお知らせが載っていました。 テーマは「未来のためにーまもる・すくう・できる」。 今回も今の世界をとりまく情勢を反映したタイムリーなテーマとなっています。 隔年のコンペティションなので、前回は2年前になるのですが、その時の審査 はとても印象深いものでした。 応募数が1300点以上でかつ国際コンペという事で英文主体のものも相当数 あったにもかかわらず、事務局の方の周到な準備があってスムースな審査をす ることが出来た事がすばらしかったのですが、さらにいえば審査委員長をされ たアートディレクターの水谷孝次さんの裁量がその場の進行や結論におおきな チカラがあったと思います。 人柄のすばらしさとデザインについての厳格な尺度そのバランスの妙がコンペ
有名な俳句「柿くえばかねがなるなり法隆寺」は正岡子規の詠んだものですが 先日正岡子規についてのドキュメンタリーを見ました。 「ことばの人」たる子規は、古今の俳句をしらべ(つくし)自ら「ことばの 辞書」を作っていたそうで、和紙に書き留めたその辞書の高さがゆうにひとの 身長程になっていたそうです。 うけうりうけうり。 ベースボールを「野球」と翻訳したのもたしか子規ですがその言語感覚はすご い。 ところで「柿くえばかねがなるなり法隆寺」あまりにも有名な句ではあるけれ どわたしはその良さがよくわからない。 意味はわかる(それもあやしいです が)けれど情景は浮かぶけれどわからない。 番組をとおしてわかったのは、それまで「食べ物」が俳句に登場した事がほと んどなかったそうです。 多分食べ物というのは高尚な世界にあってふさわし くないことば(単語)だったんだと思います。 柿というありふれたことばと法隆寺
わたしは30年程前にいったニューヨーク近代美術館の工業製品コーナーの 収蔵品を見てひとつの結論を見いだした。 「単純なカタチほどパーマネントであり評価されている」と。 いけませんね。20代にそんな結論を見いだしては。それまで製品に入れる文 字の高さは「1.25がいいのか1.20がいいのか。グレイはパントーンのクール グレイの何番か?」そういうのが頭からふっとんでしまいました。 まだまだ習うべき立場なのにいっきょに「デザイン仙人」のようにふけこん だ。ニューヨーク近代美術館はわたしにとって「たまて箱」だったわけです。 さてさて美術系の大学を受けるにあたってデッサンを習うのですが、その初期 段階で出会うのがこの三角錐に円筒がささった物体。 わたしは昔から「貫入」というのが好きなんですが、その貫入のはじまりが このカタチです。 一度展示会をしたいと思っているのが、この三角錐をはじめデッサンのモチ
わたしは数年前に「自分を変えよう」そう思いました。 それは「見る人」から「見られる人」になることでした。 今から6年ほど前に自動車雑誌にコラムを載せて頂いたことがありますが そこに写っている自分を見て愕然としたんですね。 カジュアルなかっこうで写っていたのですが、ほんとにカジュアルというか 普段着でしかないわけです。 それはすごく貴重な経験でした。 かっこうをつけるとかつけていないとかそういう事ではないんです。 「見えてれば良い」と思っていたのが、「見る人」が自分ではなくてそれを 「見ている人」は別にいるという「意識」ですね。 それを「無意識」でするのです。そう意識するようになってからどう変わった かといえば、『とにかく笑顔でいる時間が増えた』という事です。 自分で書いているのは、ほんとへんな話です。 すましていたり、難しい顔をしていると「なにも生み出さない」のです。 人が見ていようがいま
わたしたちは写真の力をしらない。文章のちからをしらない。メディアの真の チカラを知らない。 「わたしたち」と一緒にしてほしくない。わたしは知っているつもりだと思う 人も、大勢いるかもしれませんがやっぱり知らないんだと思いますよ。 世に出たものはすでに「食べ尽くした」と思って、あらたなおいしさを探求し ない、そういう意味でチカラというのは「盛りを過ぎたとき」にはじめて発揮 されるものであってそこまで「わかって」はじめて「知っている」といえるも のかと思います。 わたしはこのサイトを見てちょっと驚愕してものすごく嬉しくなりました。 たぶんというか確実に、ここに掲載されている写真は自主的にショップの人が スタイリストもしながら撮影されたものだと思うし、写真用じゃなくてこれま でに「実際にこの製品を使った事がある。」というリアリティーにあふれてい てなおかつとても美しい。 実はわたし自身が使ってい
これはエンゾ・マリがデザインし1970年にダネーゼから発売された灰皿で す。公共の場所で使われる事を意識した大型のものです。 1970年といってもわたしの手元に来たのはつい一年もたたない。 さてこの灰皿にはひとつのカタチにたいする技と言うか工夫があることについ 最近気がつきました。 それはなにかといえば手前の斜めにカットされたプラスティックの断面の 「幅」が均一である事を「発見」しました。 図学という程ではないですが、同じ肉厚のものを斜めにカットすると、その断 面は手前にくるにしたがって厚くなります。 それがこの灰皿にはないのです。手前に来ても同じ厚みに見えるというか そうなっています。 つまり面が「ねじれている」わけです。 ちょうどダネーゼに関する本が手元にあるのでそこに掲載された図面を見ても そのねじれには触れられていない。断面には一番手前の面が書かれているだけ で、「徐変(徐々に自然
もう何年前になるんでしょうか。 わたしは仕事でもブログでも「ノー」ということを言ったり書いたりしないよ うに決めました。 必ずと言っていい程『いいですね。』そこから会話をはじめることにしました。 すべての事は「いいと思って進めている。」はずです。 わたしはそれを信じる事にしました。 もしそうでなければ、その仕事は仕事じゃないと思っています。 わたしは相手に向かい合うのではなくて寄り添うように仕事をするようにした のです。 わたしには左に走り始めているものを右にするパワーも説得力も無い事はこれ までの体験でわかっています。言ってみれば自分の方向と違う事に気がつかな かった自分を責める事こそすれ、相手の問題じゃないと思います。 わたしはブログを通して読んだ人が元気になったり気持ちが上がったりするよ うな話をしたいと思っています。 これまで何度も『こりゃ一言言いたい。』そう感じた事がありましたが
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