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ブックマーク / www.h-yamaguchi.net (14)

  • 「学歴フィルター」を公表したらよい - H-Yamaguchi.net

    ゆうちょ銀行が大学新卒採用においていわゆる「学歴フィルター」を設けているとして話題になっている件。 「【炎上】ゆうちょ銀行が学歴フィルターを仕掛けていたことが判明!勇気ある学生が告発して大祭りに!!!!」(netgeek 2015年6月2日) 現在、就活まっただ中のSさんはずっとおかしいと思っていた。セミナーの予約が一向にできないのだ。そして学歴フィルターに引っかかっているのではないかと疑い、ある実験を行った結果、企業の卑怯すぎる採用手法が明らかになった。 要は、業界研究セミナーと称する事実上の採用活動イベントへの参加申し込み枠が、学生の在籍大学によって操作されており、「日東駒専」で登録したアカウントでは満席となっていたセミナーが「東京大学」で登録すると参加可能になっていた、ということらしい。 で、関心を惹きやすい話題だけに案の定いろいろと議論になっているようだが、少し話がずれているように

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  • 誰かに「死ねばいい」と思われること - H-Yamaguchi.net

    最近、アマゾンの電子書籍を買うことがめっきり増えてきた。もともとKindleDXiPad英語版のKindleを買っていたのだが、iPod touchで日語のを買うようにした(当はアカウントを統合したかったのだがなぜかうまくいかないので業を煮やしてiPod touchを使うことにした、というのが正しい)。 画面が小さいせいもあって、今のところ、買っているのはマンガが中心だ。というか、かつてないペースでマンガを買うようになってしまって正直大丈夫なのかと思うくらいだが、置き場所に困らないというのがこんなにを買うハードルを下げるのかとびっくりしている。 ともあれ、そういうわけで、どんどこ買ってるわけだが、最近買ったのがこれ。 こうの史代『この世界の片隅に』(上)(中)(下) 以下、感想文。 この作者の作品では、前に『夕凪の街 桜の国』を買ったことがある。そのとき書いた感想はこちら。独

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  • H-Yamaguchi.net: 人道・人権大使の 「シャラップ!」より問題なのは

    最近はネットのおかげか暴言ネタに事欠かない(ちっともありがたくないが)。暴言に対して当に怒ったり悲しんだりしている人もたくさんいるのだろうが、どうも見ていると、ネタとして消費されている場合の方が多いような風情が感じられなくもない。「他人の不幸は蜜の味」などというが、他人の暴言も、何の味かはともかく、人々がおいしく召し上がるもののようだ。特に有名人やら政治家やら官僚やらの暴言は、ひときわ美味らしい。昨今の「大漁」ぶりにマスメディアの方々も笑いが止まらないのではないかと想像する。 都知事の件、大阪市長の件がネタとして消費され尽くした後の暴言界で今、話題の中心となっているのはおそらく、復興担当だった官僚のツイッター発言炎上事件だろう(この件)。しかし、それにやや隠れたかたちになってはいるものの、私としてはむしろ、こちらに注目したい。 「日の人権大使が国連で暴言 「シャラップ」」(共同通信20

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  • 「人間らしい」ということ - H-Yamaguchi.net

    よく使われてて一見当たり前っぽいのだが、よく考えるとあれ?なことばというのがよくある。そういうものについひっかかっちゃう性分なもので、人と話がかみ合わなくなってしまって困ることがけっこうよくある。もっと頭のいい人はもうとっくに理解しきっちゃってるのだろうが、こっちは残念ながらそうではないもので、そういうことが頭をよぎるたびに、あれこれ考えをめぐらせたりするはめになる。 で、今回もそういうことが頭をよぎったわけだ。よく考えると「あれ?」なことばの最たる例の1つ。「人間らしい」について。 「人間らしい」ということばはいろいろなところで使われると思うんだが、ここでイメージしているのは、「人間らしい生活」、「人間らしい労働、働き方」、「人間らしい生活、くらし」とかの場合の「人間らしい」という使い方。なんとなく分かったような気がするんだけど、実際のところ何が「人間らしい」のかについて、あまりつっこん

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  • 「tsudaる」議員たち - H-Yamaguchi.net

    ごく手短に。Twitterでそのときの状態を刻々と書いていくことを、日では「tsudaる」というらしい(参考)。津田大介さんがネタ元(参考)。ご人がどう思っているかは知らないが、まあ不名誉な使い方ではないし、たぶん大丈夫だろうと思うのでそのまま使ってみる。 「tsudaる」人々はいまやあちこちにいるわけだが、ちょっと面白いのが、永田町の住人さんたち。全体でどのくらいいるのか知らないが、現在フォロー中なのはこの方とこの方。それぞれ、出席中の会議なんかを「tsudaって」くれてる(出席中の会議ではない場合もあるらしいので注意。審議中の議員がその最中に、というのは議論の余地もあるだろうし、「瞬間沸騰」する前にぜひご自身でお確かめいただきたく。個人的にはやったらいいと思うけど)。内心の突っ込みみたいなのも見えていい。同じ会議をそれぞれの立場から「tsudaる」機会とかないかな。 まだ少数派だけ

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  • 「仏子」といえばいいのだろうか - H-Yamaguchi.net

    小ネタ。「鉄子」という言い方がある。いわゆる鉄道ヲタのうち女性をあらわす表現だが、一般に思われるより女性が多いらしいというあたりがポイントなんだろうか。男性だと「鉄男」、総称して「鉄の人」。こういうちょっとマニアックな趣味に注目が集まることがたまにあるように思う。比較的最近だと、「工場萌え」とか「武将萌え」とか。「工子」とか「武子」という表現はないようだが。 そうした観点からすると、ひとつまだあまり注目が集まってないように思うものがある。「仏子」(やはり「ぶつこ」と読むべきなんだろうな)。フランス、じゃなくて仏像。「鉄な人」にならえば「仏な人」か。仏教美術ファンというよりもう少し軽いノリ、というニュアンス。もちろんずーっと前からたくさんいる人たちだが、ことばとして聞くことは少ないように思う。女性が比較的少ないという印象が一般的なのでは、という点は「鉄」や「武将」と共通。一応ぐぐってみたら「

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  • 「メディアリテラシー」に新たな定義が必要かもしれない - H-Yamaguchi.net

    「メディアリテラシー」ということばがある。Wikipediaには「情報メディアを主体的に読み解いて、必要な情報を引き出し、その真偽を見抜き、活用する能力」と定義してあって、そもそもWikipediaをソースとして使うこと自体がメディアリテラシーの観点からは問題になりうるのだろうが、この定義はよく見かけるものとさほどちがわないように思うので当面これを使っておく。他の定義もいろいろあって、最近は発信者としての個人に着目するものも少なくない(英語版のWikipediaはその色合いがより強い)が、まあそれはそれとして。 でも最近、もう1つ、新たな意味が必要なのではないかと思ったりすることがある。それは、「メディアの人たちのリテラシー」だ。 メディアリテラシーということばは、なんだかんだいっても、マスメディアが発信者、個人が受信者という図式をデフォルトとして念頭においているように思う(歴史的な経緯か

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  • 「英語を英語で学ぶ」必要はあるのか - H-Yamaguchi.net

    2008年12月22日、文部科学省が高校の新しい学習指導要領の案を公表したそうだ(関連記事としてこれとかこれとかこれとか)。いろいろポイントはあるんだろうが、なんだか「英語英語で教える」という点が特に注目を集めている。主な関心は「教師の負担」であるらしい。ふうんと思うのだが、なんだか釈然としない。 そもそもなんで英語英語で教えるべきと考えるのか?朝日の記事にこんなくだりがある。 文科省が強い方針に踏み出したのは、和訳や作文偏重だった英語教育への反省がある。経団連が00年に出した意見書「グローバル化時代の人材育成について」で「小中高で英会話を重視」「生きた英語に」と財界の要望をうたったことも底流にある。 つまり今までの英語教育は「使えない英語」を教えてきた、というわけだ(経団連の意見書「グローバル化時代の人材育成について」は「英語力の不足」が懸念であり「実用的な英語力の強化」が必要として

    「英語を英語で学ぶ」必要はあるのか - H-Yamaguchi.net
    funaki_naoto
    funaki_naoto 2008/12/24
    「英語を教えるのは英語でやるのがいいのなら、古文を教えるのは古語でやったらいいんじゃないか/要するに目的と生徒の水準に合わせて最も適した言語を使って教えればいいのであって」
  • アマゾンの長いしっぽは先端のほうで切れている、という話 - H-Yamaguchi.net

    先日、とある書店の外商の方が来られた(関連記事)。ふだんならそういう方は速攻でお引取りいただくのだが、その人は妙に押しが強くて人懐こくて、しかもなんだかやたらに博識で話がうまい。おかげでなんだかんだと30分も話し込んでしまった。後で聞いたら僧籍をお持ちの人らしくて、ああそうかと合点がいった。こういう、妙に話のうまい坊主、もとい坊さんっているよな、というわけだが、同時に、坊さんにお世辞をいわれるのがこんなに薄気味悪いものか、ということも学んだ。 いやそんなことはどうでもよくて、題は、その際話に出た、出版業界の「苦境」に関する話だ。 そもそもこの人、大きな書店の神戸支店の人。なんでわざわざ東京まで来るのかよくわからないのだが、なんでも大学関連をかなり広域に担当しているらしい。書店ではあまり取り扱わない全集の類を大学なんかに口八丁で(人談なので失礼ではなかろう)売りさばくビジネスモデル。3月

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  • 知らない人について行ってはいけません - H-Yamaguchi.net

    知らない人について行ってはいけません  4年1組 山口 浩 こないだ、他のクラスの女子が、大人の人に連れて行かれそうになったそうです。今日のホームルームのとき、先生が話してくれました。その女子は、夜、一人で駅前の屋に行って、立ち読みをしていたそうです。そしたら、大人の人が来て、「おかしを買ってあげるよ」と言ったそうです。その子は、「どんなおかしを買ってくれるのかな」と思って、ついて行ったそうです。それで、その大人の人の自動車に乗ろうとしたら、その近くにいた近所のおばさんが、「どこ行くの」と聞いたそうです。そしたら、その大人の人は、にげて行ったそうです。そのあと、その子は、おばさんに、「知らない人について行っちゃだめじゃないの!」とおこられたそうです。 それで、先生は、話し終わったあと、「だれが悪かったのかな?」と聞きました。そしたら、右野つばさくんが、「知らない人について行くのはいけない

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  • 「男性をほめるのは女性の仕事」と言ってみるテスト - H-Yamaguchi.net

    の男性は女性をほめない、という話がよくある。たいてい「欧米では」と続く例のアレだ。一応「日男性はシャイ」だの「日男児は質実剛健」とかいう反論なんかもあるんだが、ごちゃごちゃやったあげく「だから日の男はだめ」と締めくくる。なんかもう展開がぜんぶ読めちゃうぐらい使い古された流れになってるわけだ。最近もこんなことをいってる人がいて、またかいとスルーしようと思ったんだが、なんかひっかかった。 そういえば自分はこのテーマで言いたいことがあったんだよなぁ、と。タッチーなテーマなんで、あくまで「と言ってみるテスト」ということでひとつよろしく。 リンク先の記事を書かれたライブドアPJの方は「個人レベルで女性をほめる日男性には全くと言っていいほどお目にかからない」と書いておられて、おそらくこれを読んだ人の3人に2人くらい(決め付けちゃおう)は「それはきっとあなたがほめられてないだけだと思うよ」と

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  • 「政治的に正しい日本語」を考えてみてはどうか - H-Yamaguchi.net

    それまで何の疑問ももたれずに使われてきたことばが、問題ありとして突然使われなくこともままある。今回の変化は政界発だ。今のところはまだ政界の中にとどまっているようだが、おそらくそのうち放送・出版業界あたりにも伝播するのではないか。やがて庶民のことばにまで影響が及んでくるかもしれない。 今回問題となったのは、「人間を人間以外のものにたとえる表現」だ。これまで私たちは、比喩表現の中でこれを幅広く使ってきた。学校国語で習った記憶では、比喩にはいくつかあって、代表的なのは直喩と隠喩だろう。前者は「一つの事物を直接に他の事物にたとえる」(大辞林)かたちの比喩であり、「AはまるでBのようである」といったふうに、AとBがちがうものであることがはっきり示される。これに対して後者は「言葉の上では、たとえの形式をとらない比喩」(同)で、大辞林には「雪の肌」といった例が出ている。いうまでもないが、少なくともこれま

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  • 新「六次の隔たり」仮説を発見したかも、という話 - H-Yamaguchi.net

    あくまでネタ。いわゆる「六次の隔たり」というのは、一時はやった、6人を介すると世界中とつながるというアレである(参考)。この話を「仮説」というか「神話」というか別として、実際には世界はそこまで狭くはないよというあたりも含めて、知ってる人はみんな知ってる状態になるまで広まったわけだが、もう1つ、「六次の隔たり」仮説と呼べるものがあるのではないか、ということに気づいた。なにをいまさら、なのかもしれないけど。 気づいたのは、昨夜というか今朝というか、テレビ朝日の「朝まで生テレビ」を聞いていたときだ(ラジオで音声だけ聞いていたので「見た」のではない)。今回のテーマは「激論!“いじめ”“自殺”と日教育」。出演者はこんな感じ。 司会: 田原 総一朗 進行: 長野智子 渡辺宜嗣 パネリスト: 葉梨康弘(自民党・衆議院議員) 蓮舫(民主党・参議院議員) 福島みずほ(社民党党首、参議院議員) 伊藤玲子(

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    funaki_naoto
    funaki_naoto 2006/11/25
    「風が吹けば桶屋がもうかる」
  • 「百姓から見た戦国大名」 - H-Yamaguchi.net

    いわゆる「網野史観」というのがある。2004年に亡くなった歴史学者網野善彦氏らが提唱した、権力者よりむしろ民衆に注目する歴史のとらえ方、とでもいえばいいだろうか。歴史学者の間ではいろいろな見方があるらしいが、現存するさまざまな資料と整合的なところがたくさんあるし、少なくとも素人である私の目から見れば、「えらい人々」の歴史よりよほど面白く説得力がある。 このは、網野史観にも似た「民衆からの視点」をもって戦国時代を見たもの、といえる。戦国時代というと、私たち素人はつい、合従連衡とか下克上とか、天下統一へ向けた武将たちのドラマとかロマンとかみたいなものばかり思い浮かべてしまう。その「陰」で民衆は泣いていたのでは、なんて想像する人も多いだろう。戦乱の世にあって、家族との平和な日々を夢見ながらも横暴で権勢欲旺盛な君主に駆り出され泣く泣く戦場へ、なんて今ふうに考えてしまいがちだが、とんでもない。そん

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