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ブックマーク / hodge02.hatenablog.com (14)

  • 「日本人のためのキリシタン入門書」を書き「日本人のための反キリシタン入門書」も書いた不干斎ハビアン - HODGE'S PARROT

    不干斎ハビアンの思想:キリシタンの教えと日的心性の相克 作者:梶田 叡一発売日: 2014/04/11メディア: 単行つい最近まで不干斎ハビアン(1565 - 1621)という人物についてまったく知らなかった──それは後で引用する山七平(イザヤ・ベンダサン)の著名な著書『日人とユダヤ人』を読んだことがなかったということでもあるのだが。 この梶田叡一の『不干斎ハビアンの思想 キリシタンの教えと日的心性の相克』を読んでハビアンという特異な「日人」について基的な情報を得ることができた。メモしておきたい。 ”キリシタン時代”をキリシタンの側から生きた日人 不干斎巴鼻庵(フカンサイ・ハビアン)。名はわからない。ただ、母親は豊臣秀吉のである北政所の侍女だったという。ハビアンは大徳寺で禅僧として修業をしていたが、19歳のとき、その母親に従いキリシタンになったという。時代はフランシスコ

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  • エマーソン・クァルテットの『フーガの技法』、そして…… - HODGE'S PARROT

    ファッション雑誌で「古楽器サウンド」なる特集が組まれる最近の状況を鑑みれば、艶やかなヴィブラートを多用しモダン楽器を清新溌剌と鳴らすバッハなぞ、何やら反動の極みと謗られるかもしれない。 バッハ:フーガの技法 アーティスト: エマーソン弦楽四重奏団,バッハ出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック発売日: 2003/11/21メディア: CD クリック: 11回この商品を含むブログ (6件) を見る しかしこれが最高にいいんだな。エマーソン弦楽四重奏団(Emaerson String Quartet)のバッハ『フーガの技法』は、「技芸」(Art)の何たるかを雄弁に知らしめてくれる。技巧は美しい、技術は芸術である、と。 せっかくだから、『フーガの技法』の構成を記しておきたい。 フーガの技法 The Art of Fugue コントラプンクトゥス1 Contrapunctus I

    エマーソン・クァルテットの『フーガの技法』、そして…… - HODGE'S PARROT
  • クイウス・レギオ、エイウス・レリギオ - HODGE'S PARROT

    ローマ・カトリック教会の歴史 作者: エドワードノーマン,百瀬文晃,Edward Norman,月森左知出版社/メーカー: 創元社発売日: 2007/12/01メディア: 単行 クリック: 11回この商品を含むブログ (5件) を見る エドワード・ノーマン著『ローマ・カトリック教会の歴史』は、図説(An Illustrated History)と銘打っているように絵画や美術品、遺跡の写真が数多く収録されていて、宗教美術史のとしても見応えのあるものになっている。 しかも、その中には、敵対勢力=プロテスタント側が描いた風刺画や、聖職者というよりもまるでマフィアのボスのようなローマ教皇の肖像画*1、「旧ソ連時代の社会主義リアリズム芸術を先取りした」と著者が(思わず?)称えるようなポスター*2など、普段美術書などであまり見かけることのない「貴重な」図版もあって、なかなか興味を惹いた。 改めて、

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  • 「死ね、さらばイエスは生き給う」 - HODGE'S PARROT

    富岡幸一郎 著『使徒的人間 カール・バルト』に、カール・バルトに強い影響を与えたルーテル派の神学者クリストフ・ブルームハルト(Christoph Blumhardt 、1842 - 1919)のことが触れられていた。そこで述べられているブルームハルトの言葉がとても強く印象に残った──まさに「力の問題」(Machtfrage)としてのキリスト教信仰について語られていた。引用しておきたい。 1893年の8月、51歳のブルームハルトは、こう語った。 《宗教改革の時代は終わりました。私どもが必要なのは、神ご自身です。イエス・キリストそのものです。死人の中から甦られ、やがて現れるキリストです。そして他のすべてのものは消え去るのです。他のすべてのことにおいて貧しくなる者こそさいわいです。この他のすべてのものにひそむのは肉であり、倒錯でしかないからです。最後の日が燃えるとき明らかになるのは、そのすべてが

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  • 天使──証言の遂行者 - HODGE'S PARROT

    使徒的人間―カール・バルト 作者: 富岡幸一郎出版社/メーカー: 講談社発売日: 1999/05メディア: 単行 クリック: 3回この商品を含むブログ (6件) を見る 富岡幸一郎 著『使徒的人間 カール・バルト』は、プロテスタント神学者カール・バルトの「思想」について概観したであるが、その第17章ではバルトの「天使論」についてページが割かれている──バルトは「天使博士」と呼ばれたトマス・アクィナスを上回る量の「天使の教義学」を書いた人物であった。 ヘブル書1章14節には「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために遣わされたのではなかったのですか」とある。すなわち天使は「仕える霊」であり、それはイエス・キリストとの関係において、奉仕するために、遣わされた──それが天使の質だ。 バルトは、天使は「霊であること」によって規定されるのではなく、特定の

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  • 正統の戦慄に満ちたロマンス - HODGE'S PARROT

    G.K.チェスタトンの『正統とは何か』の序文「書以外のあらゆる物のための弁明」で、チェスタトンは、「ロマンス」についてこう述べている──「未知なるものと既知なるものと、その両方を同時に必要とするという要求である」と。 この「両方を同時に必要とする」ということが『正統とは何か』のあちこちで述べられている。それこそがキリスト教の核心なのだ、と(弁明している)。さらに、 教会は、根の教義を定めることで、一見矛盾する二つのことを両立させたばかりではない。もっと大事なことがある。その二つを、いわば整然たる激越さにおいて爆発させることができたのだ。その激しさたるや、アナーキストにしかできぬ激しさだった。しかもその激しさには、アナーキストにはない整然たる秩序があった。 チェスタトン『正統とは何か』(安西徹雄 訳、春秋社) p.172 そんなチェスタトンについてスラヴォイ・ジジェクは「正統の戦慄に満ち

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  • 他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない - HODGE'S PARROT

    これまで読んだ「ちくま新書」の中で、僕の個人的なベストは、やはり永井均の『ウィトゲンシュタイン入門』だ。何よりも著者の「問題設定」にグッときた──感動した。 永井氏は序章で「私はなぜ、今ここにこうして存在しているのか」という問いについて記す。子供のころから考えていたのだという。「なぜこの子(つまり永井均)が自分であって、隣にいる子が自分ではないのか」という疑問だ──それが不思議でならなかった。しかも、誰も「そんなこと」を不思議がっているように見えなかった。さらに不思議に思ったのは「そんなこと」とはいったい何だ、ということである──私自身とまわりのみんなに共通の「そんなこと」など、質的に、あるのだろうか? 「僕はなぜ生まれてきたのだろう」という問いに、ある聡明な友人は「両親がセックスしたから」と答えた。その答えに著者は失望した。問題は「どうして<僕が>生まれてくる理由があるのだろう」という

  • 「それゆえ」 - HODGE'S PARROT

    それゆえ、「規則に従うこと」は実践(プラクシス)である。そして、規則に従っていると信じることは、規則に従っていることではない。それゆえ、規則に「私的に」従うことはできない。そうでなければ、規則に従っていると信じることが、規則に従っているのと同じことになってしまうであろうからである。 ウィトゲンシュタインの診断は、「解釈ではないような規則の把握のしかたが、どのようにして存在しうるのか?」という問いを呼び起こす。そして、私の考えでは、規則に従うことは実践であるというテーゼこそが、この問いに対する答えとなることを意図されたものなのである。 つまり、推論(冒頭の「それゆえ」)を媒介しているのは次のような思想である。すなわち、解釈ではないような規則の把握のしかたが存在することを、理解可能なこととみなさなければならないとすれば、規則に従うことは実践であるということを、はっきりと理解しなければならない、

    「それゆえ」 - HODGE'S PARROT
  • 何かについての真理、何かのための真理 - HODGE'S PARROT

    今村仁司の『アルチュセール』から、「問題設定」(プロブレマティック)と「イデオロギー」についてメモしておきたい。 ルイ・アルチュセールによる「問題設定」という概念は、「問いあるいは問題を立てること」という文字通りの意味から、「問いを立て、その問いに応答する、問い─答えの統一ある全体」へ転じたものだ。すなわち「どのような問いを出し、どのように答えるか、をみちびく特定の思考様式」である。 「問題設定」は「理論的前提」でもある。 この「前提」は、ある思想家の思想や思考スタイルをみちびくもの、つまり「自己の諸問題の意味と方向、したがってそれらの解決の意味と方向をそのなかで決定する」ものである。だがとくに注意すべきことは、「問題設定」とか「理論的前提」は、ふつうは、思想家自身にも自覚されておらず、かくされたままで現実に作用しつづける、という事実である。 この点が最大の特徴点である。 だから、あるひと

  • 「虚構」が言い訳として使用されるとき、私は - HODGE'S PARROT

    ここのところ<良心>の問題について考えていて──とはいっても四月は忙しい月なのでを読んだりする時間がなかなか取れないのだが──昨日はマーサ・ヌスバウムの『幸福な生の傷つきやすさ』を読んだ。ヌスバウムはアリストテレスに則して「よく生きる」ことについて、とりわけ「道徳」と「運」の関係について考えさせてくれた。後で感想のようなものを書きたいのだが、その前に、id:Arisanさんのプラトンの『国家』の解題のエントリーを読んで、いわゆる「詩人追放」の部分で僕がこれまで漠然と感じていたもやもやした思いが、そこで非常に明確に言語化されていた。とても納得のいく説明だった。それについて引用させていただきたい。この点についても後で整理できたらと思う。 プラトンは、ここでは詩を非難しているというよりも、詩に対する「大衆の恋」こそを遠ざけようとしている、と見るべきだろう。 つまり、危険は、虚構それ自体にあるの

  • ジョン・ロールズのルール=実践観 - HODGE'S PARROT

    隆史 著『ロールズ 正義の原理』を読んでいる。興味を惹いたところがあったのでメモしておきたい。 ロールズが《ルール》という用語を明確化した論文「二つのルール概念」について。この論文で彼は、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」にヒントを得、「ある実践(プラクティス)を正当化することと当該の実践に含まれる個々の行為を正当化すること、その両者の区別の重要性を指摘する」ことを目指したのだという。 彼は行為功利主義者が陥りがちなルール観を「ルール=要約観」と名づける。これは、ルールなるものを<個々のケースに功利主義を直接適用した結果得られた過去の諸決定の要約>と考える見解であって、ケースごとの意思決定がルールより論理的にも先行する。たとえば「約束を守るべきである」とのルールをこの「要約観」で説明しようとするなら、これまで各種の約束を履行した場合にすべて有利な帰結がもたらされたので、約束の遵守がル

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  • ロンブローゾ・プログラム 「殺人=哲学」探求 - HODGE'S PARROT

    「恍惚/Swoon」のエントリーで触れた、チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso)について初めて知ったのは、多分、イギリス──というよりスコットランドの作家フィリップ・カー/Philip Kerrの『殺人探求』という小説だったと思う。 原題は『A Philosophical Investigation』で1992年に出版された。 殺人探究 (新潮文庫) 作者: フィリップカー,Philip Kerr,東江一紀出版社/メーカー: 新潮社発売日: 1997/05メディア: 文庫 クリック: 2回この商品を含むブログ (2件) を見るA Philosophical Investigation 作者: Philip Kerr出版社/メーカー: Plume発売日: 1994/03/01メディア: ペーパーバック クリック: 2回この商品を含むブログ (1件) を見る 先に『ミステリ

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  • 「殺したのはおまえたちだ!」 - HODGE'S PARROT

    未完の『魔王ダンテ』を読み終えた後、その圧倒的な感興に打ちのめされながら、ふと古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』に書かれてあった印象的な部分を思い出した。それは従来の神とは別の神、「存在が起点になり、存在が織りあげる、存在のための神」、すなわち「存在《の》神」(存在の後光、光背)についてである。 ニーチェ同様に、かれも思う。神は死んだ。「最初に設定された神」や「途中ですがる神」。そんな神なら死んだ。死んでもいい。そんなものは神じゃないからだ。<ほんとうの神>は、だから──おそらく原始キリスト教の崩壊のあとずっと──死んだままだった。 殺したのは、神学者をふくむ、とりわけ近代人だ。「殺したのはおまえたちだ!」(『悦ばしき智慧』断章128番)。そんなニーチェのような激しいことばをはくのは、ハイデガーの流儀ではないが、思いはいっしょだった。 「ニーチェのように真剣に<神の死>を語り、それに命

  • アラン・チューリングとウィトゲンシュタインの討論 - HODGE'S PARROT

    デイヴィッド・レーヴィットがアラン・チューリングに関するを出版するということなので──Gay by Gay なので──期待して待つことにしよう、と星野力『甦るチューリング』を再読……いや読み飛ばした。 (Andrew Hodges の "ALAN TURING: THE ENIGMA" はまだ翻訳されないのだろうか?……これも Gay by Gay だ)。 その中に、チューリングがウィトゲンシュタインの講義に出席し議論したというエピソードがあって(これは Gay vs. Gay だろうか)、興味を惹いた。 ウィトゲンシュタインは、数学における証明、無限、数、法則といった用語を日常用語と関係づけ、自動的に導出される論理体系は、普通に真理という言葉で意味されるものと無関係だ、と論じたそうだ。彼はただ一個の矛盾、とくに自己矛盾があると、どんな主張も正しいと証明されてしまう、という述語論理の特徴

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