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伊藤剛に関するgenesisのブックマーク (25)

  • 2008-06-08

    はっきりいってマジャール語の解読してるほうがはるかに楽しいんだが、石のほうも一段落するはずなので、いちおう義理を果たしておく。 私見では件の『ユリイカ』「マンガ批評の新展開」で「表現論vs社会反映論」の図式が出来上がった背景にはこれと前後してネット上でおこなわれた『思想地図』1号掲載の伊藤論文「マンガのグローバリゼーション」(とそれを遡ること2年半前のユリイカの前マンガ批評特集)を巡る伊藤剛と紙屋高雪の論争(のようなもの)がある。 以下に時系列順にその経緯を示す。 紙屋研究所での伊藤『テヅカ・イズ・デッド』論 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 大塚英志・大澤信亮『「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか』 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』ふたたび 伊藤による思想地図論文と紙屋への言及 『思想地図』vol.1 伊藤剛「マンガのグローバリゼーション」 「思想地図」に論文を書きました。 紙屋の返答? と

    2008-06-08
  • マンガの「歴史」と「現在」をつかまえるために 伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』 - 宮本大人のミヤモメモ(続)

    テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ 作者: 伊藤剛出版社/メーカー: NTT出版発売日: 2005/09/27メディア: 単行(ソフトカバー)購入: 9人 クリック: 175回この商品を含むブログ (314件) を見る 読みやすいではない。いささか生硬な文体で、「ポストモダン」、「システム論的」、「データベース」、「テクスト」といった「現代思想」風の言葉を用い、東浩紀の『動物化するポストモダン』を引用しながら、「キャラ/キャラクター」、「フレームの不確定性」といった独自の概念を創出する手つきを目にすると、虎の威を借る言葉遣いで自らの議論の貧弱さを糊塗し、サブカルチャーをめぐる議論を不必要に小難しくする類のかと受け取る読者もあるだろう。しかし、それは違う。 ていねいに一字一句読み進めていけば分かることだが、これらの「現代思想」風の概念は、一見した時の印象ほど多く使われている

    マンガの「歴史」と「現在」をつかまえるために 伊藤剛著『テヅカ・イズ・デッド』 - 宮本大人のミヤモメモ(続)
    genesis
    genesis 2007/11/18
    曰く,「〈テヅカ・イズ・デッド〉。しかし、〈マンガ・イズ・ノット・デッド〉。これが伊藤の主張の根本である。」
  • 東浩紀×伊藤剛対談『テヅカ・イズ・デッドからゲーム的リアリズムの誕生へ』ダイジェスト版

    はじめに さる2007年6月5日に行われた東浩紀と伊藤剛の対談「『テヅカ・イズ・デッド』から『ゲーム的リアリズムの誕生へ』」のダイジェスト版と私的な感想をまとめた。すべてを網羅するのではなく、個人的に印象に残った部分のみを断片的に抜き出すようなかたちになっている。これはエントリの目的が対談のレポートにあるのではなく、個人的な感想を述べることがメインになっているからである。 抜き出した部分にはこちらで勝手にタイトルをつけて、大まかな性格を与えた。まずは“1.『ゲーム的リアリズムの誕生』について”。ここでは、東浩紀自身が自著についての説明を行った箇所のみを引用している。来は、対談の中での伊藤剛とのやり取りの一部分にすぎなかったものだ。しかし、『ゲーム的リアリズムの誕生』の読者にとってはある程度参考的な内容となるのではないかと思う。 “2.キャラクター文化にとっての美とは?”とその次の“3.

    東浩紀×伊藤剛対談『テヅカ・イズ・デッドからゲーム的リアリズムの誕生へ』ダイジェスト版
  • たかひろ的研究館 - ガンガン系はなぜマイナーなのか

    *続編記事はこちらです。 ガンガン系(スクエニ系)のマンガは、マイナーであるとよく言われます。これは実際にその通りで、メジャー誌と呼ばれる大手出版社の雑誌(ジャンプ・マガジン・サンデー・チャンピオンなど)とは、その知名度や売り上げで格段の違いがあります。マンガをよく読んでいる人でも、ガンガン系の作品をほとんど知らないということは、珍しくありません。あるいは、ガンガン系作品で知っているのはごく一部の人気マンガのみ(「鋼の錬金術師」や「ロトの紋章」など)という人の話もよく聞かれますし、実際にそういう人も多いのでしょう。 最近になって、ガンガンの編集者が「目指すのはメジャーな少年誌です」などと発言し、実際にそれに沿った路線の雑誌作りを行っているのも、このような状況に対する強烈な対抗心があるのだと思われます。 そこで、ここでは、「なぜ、ガンガン系(スクエニ系)がここまでマイナーなのか」「な

  • 漫画批評における、視点をめぐる諸問題 - リクィド・ファイア

    ■同一化技法という造語から 「主観ショット」という映画用語がある。また、漫画論の世界では「同一化技法」という言葉がある。 主観ショットとは、Point of View(視点)ショットとも呼ばれ、略して「POVショット」もしくは単に「POV」とも呼ばれている。カメラが映す映像を「登場人物の視点から撮影したもの」として見立て、登場人物の視線の向きを、観客の視線とほぼ一致させることのできるカメラワークを指す。そして主観ショットの効果を生み出すような演出は、(登場人物と観客の視線を同一にすることから)「同一化させる」などと説明される。 一方、同一化技法とは、漫画研究家である竹内オサムがその著作(『マンガ表現学入 門』など)の中で提唱した言葉であり、映画の技法を漫画に援用したものだと定義されている。しかし、映画用語の中には「同一化」という言葉こそあれ、実は「同一化“技法”」という言葉は見かけられない

  • 箱男 - フラットキャラクター/ラウンドキャラクターなど

    genesis
    genesis 2006/06/07
    《意味‐内面》 FlatCharacter/RoundCharacter,《図像‐内面》 Kyara/Character,《意味‐図像》 Simbolism/Fetishism
  • 箱男 - 伊藤さんは勘違いをしている

    genesis
    genesis 2006/06/07
    曰く,「「ラノベにおけるキャラ萌え」みたいな話は基本的には図像/内面の象限に対応した「キャラ/キャラクター」の問題ではなく意味/内面の象限に対応した「フラット/ラウンド」の問題として論じられるべき」
  • 2006-03-17

    認知科学徒GPY-テヅカ・イズ・デッドにおける東-伊藤モデルの可能性 http://d.hatena.ne.jp/cogni/20060316/p1 id:cogniさんの「キャラ-キャラクタ-ナラティブ」のアイデアにびっくり。とてもユニークで、良いヒントになると思います。ひょっとするとラカンの3分法に当てはめられるかも知れませんし。その場合、キャラ=想像界、キャラクター=抽象界、ナラティブ=現実界でしょうか。 ただ、「キャラ-キャラクタ-ナラティブ」のアイデアに対しては疑問点もあります。 「キャラ-キャラクタ」の部分はとても納得です。キャラっぽいかキャラクターっぽいかを決めるのはリアリティーで、そのリアリティーは物語によって注入される、と。 しかし「キャラ-ナラティブ」「キャラクタ-ナラティブ」の部分の説明は、私には「キャラ-キャラクタ」の説明を言い換えているだけのように思えます。「キャ

    2006-03-17
    genesis
    genesis 2006/03/17
    キャラクターを「属性データベース/キャラ/キャラクター」の三層として把握し,ユングの「集合的無意識/個人的無意識/意識」と対照させてみよう,との思いつき。
  • 認知科学徒GPY - 『テヅカ・イズ・デッド』における〈東‐伊藤モデル〉の可能性

    こぐにと、 cognit,

    genesis
    genesis 2006/03/16
    「キャラ/キャラクター」に「ナラティブ(説話)」を加えての三項関係を論じる。
  • 『テヅカ・イズ・デッド』の擁護文の2 - 旧tototo

    こので「キャラ/キャラクター」を要素としてクローズアップした理由は、第一に実際の作品の観察・実作上の経験*1に拠っている。マンガを構造として語ろうとした場合まずコマや吹き出しに目が行くけれども、ではコマが存在しない、もしくはコマ配列では説明できない手法はどう説明するかという必要性から、コマの枠組みを破壊するものとして登場人物の絵が、吹き出しを破壊するものとしてモノローグなどの言葉が見出される。とりあえず単純に考える分には学問研究なんだから実際に使われている手法から発見していくのが最も適切なので、これらの接続要素を「マンガ研究」に使用する分には全く問題ない。要するに主体性を持つかのように思われるモノ、もしくはその延長上のモノであるならコマを侵犯できるということ、そのように作品が成立するための手法や構造を侵犯できるほどに描写されるモノが主体性を獲得するためには受け手と送り手双方がコマ文法を既

    『テヅカ・イズ・デッド』の擁護文の2 - 旧tototo
    genesis
    genesis 2006/02/21
    物語を記述する上での「絵」を記号レベルにまで還元していくと[キャラ/キャラクター]になる」ことについての的確な説明。また,「萌えキャラ」の成立が〈音羽系〉と〈一ツ橋系〉の対比に求められることも指摘
  • 人生という憂鬱のためのアーカイヴズ - ノート

    ■サブ・カルチャー的な「私」としての僕たち。 その13-a すでに多くの場所で言及されていると思うが、「まえがき」によれば〈マンガ表現のシステム論的解析〉となる『テヅカ・イズ・デッド――ひらかれたマンガ表現論へ』というのなかで、伊藤剛は、マンガという表現において、身体を読み手に意識させる要素の、その在り方あるいは立ち方を、「キャラ(Kyara)」と「キャラクター(character)」の二項に分割している。 〈「キャラ」を定義するとすれば、次のようになる〉と伊藤はいう。 多くの場合、比較的に簡単な線画を基とした図像で描かれ、固有名で名指されることによって(あるいは、それを期待させることによって)、「人格・のようなもの」としての存在感を感じさせるもの 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 また〈一方「キャラクター」とは〉として、以下のような定義を行う。 「キャラ」の存在感を基盤として、「人格」

    genesis
    genesis 2006/02/16
    「キャラ/キャラクター」と「まんが・アニメ的リアリズム」の接合。もっぱらベタ引用によって構成。
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    絵の超初心者ド下手くそ人間が、20日間絵を描いて感じたこと わたしは、「文の人」だ。絵を描くのは大の苦手。 そんなわたしが、ひょんなことから絵を描き始めた。 そうしたらおもしろくなって約20日間、なにがしかを描きつづけている。 未知の領域での挑戦は、発見が多い。 また、ここまで絵を描けない人間の挑戦は、あまりネッ…

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    genesis
    genesis 2006/01/04
    曰く,「『テヅカ・イズ・デッド』は、マンガ評論の現状に対して「二つの戦場で戦っている」ような本である。」
  • 2005年マンガ界を回顧|本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

    ドラマ化やブログ 相乗効果でヒット マンガ界の1年を振り返る恒例の年末対談。今年は新進気鋭の評論家・伊藤剛さん(38)と、売り場の声を代表して日最大級の書店、ジュンク堂池袋店コミック担当の田中香織さん(27)の2人に、2005年の収穫を語り合ってもらった。(司会・石田汗太、佐藤憲一) 田中 店頭では、テレビドラマや映画化で話題となったものがびっくりするくらいよく売れた。『NANA』や『花より男子』ですね。グループや家族で買う人も多く、マンガがみんなで楽しむものになりつつある。 伊藤 少女マンガが100万部売れても、30代以上の男性はまったく知らなかったりする。ドラマ化はその垣根を越える一つの装置だし、全体を俯瞰(ふかん)できる立場にある書店が薦める作品は、僕も信用している。ブログなどの口コミで火がつくことも結構あるのでは。 田中 確かに、誰かが面白いと言うに飛びつく人が多くなった。ネ

    genesis
    genesis 2005/12/29
    伊藤剛×田中香織(ジュンク堂)
  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』

    伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』 書は、漫画表現論、あるいは漫画表現史の方法論であり、なおかつ、それ自体が一種の漫画表現史になっている(後述)。 内容の乱暴な要約――漫画のモダン=手塚にしばられるな 書の内容を乱暴にまとめると次のようになる。 90年代後半に「漫画がつまらなくなった」という言説が漫画評論家などのあいだでふえはじめる。しかし、それはそう言う評論家たちが、漫画に「人間」や「内面」や「物語」といった「モダン」なもの、もっといえば近代的なリアリズムを基準にみようとするからで、そうしたモダンなものがない漫画、ポストモダンな漫画が読めなくなったせいだ。 もともと漫画は、独特の存在感のある線の束で表現されるもの(キャラ)をもち、それが近代的な「内面」や「物語」をかかえこんであたかも実在の身心をもつかのような人間としてうけとられるようになった(キャラクター)。しかし80年代後半以降、「内

    genesis
    genesis 2005/12/07
    曰く,「あらゆるものをモメントに落として壮大な体系のなかに組み込んでしまうというあざやかさは、見事である」
  • asahi.com: テヅカ・イズ・デッド [著]伊藤剛 [評者]中条省平

    マンガがつまらなくなったという声をよく聞く。だがそれは違うと書の著者はいう。手塚治虫の作品を規範として育ち、戦後マンガの奇跡的な成長を支えた読者や評論家に、今のマンガの魅力が分からなくなったのである。テヅカ イズ デッドと宣告される理由だ。 その決定的な分水嶺(ぶんすいれい)は一九八〇年代半ばにあると著者は分析する。そのとき日マンガに何が起こったのか? キャラクターからキャラへの移行である。 キャラクターとは、絵の背後に人生や生活を想像させ、内面を感じさせる人物像である。ひと言でいえば、物語性を生きる存在だ。これに対して、キャラは、固有名をもち、人格的な存在感ももつが、人生や内面をもたない。だから、これまでのマンガの読者はキャラに同一化することができない。にもかかわらず、現在のマンガを支える読者は、現実的な身体性を欠いたキャラに強く感情的に反応する。読者のかなり一方的なこの感情的反応が

    genesis
    genesis 2005/11/21
    2005/11/13朝刊掲載の書評
  • インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - 伊藤剛 『テヅカ・イズ・デッド』

    http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4592143019/interactivedn-22 http://www.bk1.co.jp/product/2587509?partnerid=p-inaba3302385 でぶろぐ経由。 笑ってしまうくらい直球のジェンダーSF。 突込みどころは満載(たった百年ほどで男上位社会の記憶があそこまで消えるものだろうかとか、赤面疱瘡がもし鎖国日の外に漏れたら更にすごい話になるだろうとか)だが傑作になるかもしれない。 吉宗様(女)カコイイ。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4757141297/interactivedn-22 http://www.bk1.co.jp/product/2598355?partnerid=p-inaba3302385 かつて『デ

    インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - 伊藤剛 『テヅカ・イズ・デッド』
  • 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』を読む(1): たけくまメモ

    以下の文章は先頃刊行された伊藤剛の著作『テヅカ・イズ・デッド』を読んでの感想であります。とはいえ書き始めたらとまらなくなり、内容紹介を含めて相当な分量になってしまいました(しかも、まだ書き終わっていない)。マンガ論としては久しぶりに出た格的な理論的著作であり、2年半に及ぶ書の「産みの苦しみ」のプロセスを友人として端から見ていただけに、個人的にも感慨深いものがあるのは確かであります。 マンガ表現やマンガ史における新見解をいくつも含んだ野心作で、かなり専門的な内容(価格も専門書的)ですが、難解な用語をことさらに駆使しているわけではなく(むしろそれは最小限に抑えている感じ)、マンガ表現に関心のある人なら、一度は目を通して損はない出来だと断言できます。この感想はまだ執筆途中ですが、なかなか終わらないので「短期連載」にしました。書における伊藤くんの論旨には私自身のマンガ観にも反省を迫る部分があ

  • http://d.hatena.ne.jp/laco/20050819/p1

  • ARTIFACT -人工事実- | 「伊藤剛って漫画のライターを知っている?」

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    genesis
    genesis 2005/08/12
    1998/11/20付け
  • http://www.hirokiazuma.com/project/ml-reviews/sentoindex.html