タイトルからはじめよう.「母たち」とは,ゲーテの『ファウスト』の有名な一シーンで,恐れおののくファウストがメフィストフェレスに導かれてゆく,「そこには場所も時間もない」ような「母たちの国」からとられている.これは現在もっとも注目すべきイタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが,その問題作『夜の歴史』(竹山博英訳『闇の歴史』せりか書房,1992年)のエピグラフに掲げたものである.一方,上村忠男はギンズブルグとの批判的対話を試みた本書『歴史家と母たち』の冒頭でこの「母たちの国」に触れながら,場所と時間こそが歴史学が成立するための必要不可欠の条件であると述べている.「歴史家」と「母たちの国」.「と」で無雑作につながれたこの関係は,むろん穏やかなものではあるまい.上村が『夜の歴史』の批判的読解を試みた本書の第1論文「歴史家と母たち」をそのまま本書のタイトルに掲げるとき,それは本書の全体を貫く問題がどこ