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Studiumと倫理に関するhokusyuのブックマーク (2)

  • 歴史学的認識の限界

    タイトルからはじめよう.「母たち」とは,ゲーテの『ファウスト』の有名な一シーンで,恐れおののくファウストがメフィストフェレスに導かれてゆく,「そこには場所も時間もない」ような「母たちの国」からとられている.これは現在もっとも注目すべきイタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが,その問題作『夜の歴史』(竹山博英訳『闇の歴史』せりか書房,1992年)のエピグラフに掲げたものである.一方,上村忠男はギンズブルグとの批判的対話を試みた書『歴史家と母たち』の冒頭でこの「母たちの国」に触れながら,場所と時間こそが歴史学が成立するための必要不可欠の条件であると述べている.「歴史家」と「母たちの国」.「と」で無雑作につながれたこの関係は,むろん穏やかなものではあるまい.上村が『夜の歴史』の批判的読解を試みた書の第1論文「歴史家と母たち」をそのまま書のタイトルに掲げるとき,それは書の全体を貫く問題がどこ

  • オメラスから歩み去る者たち

    燕たちを飛び立たせる鐘の響きとともに、海辺に輝かしくそびえ立つオメラスの街に初夏の祭りがやって来た。港に係留されたボートの索具は旗で飾られている。赤い屋根と彩られた壁の家々のあいだの路地を抜け、古く苔むした庭園や並木道の通りを抜け、大きな公園や公共建築のそばを過ぎて、人々のパレードが進んでいく。折り目正しい人々――藤色と灰色の格式ばった長衣をまとった老人、真面目な熟練工、赤子を抱いて歩きながら他愛のない言葉を交わす物静かだが朗らかな表情の婦人たち。 別の通りでは音楽のリズムはより速く、銅鑼とタンバリンとがきらめき、人々は踊り始める。行進はダンスとなる。 子供たちはパレードの内外を跳ねまわる。彼らの高い叫び声は、楽器の音色と歌唱の響きのあいだを横切りながら飛んでいく燕のようだ。すべてのパレードが街の北へと向かう。そこはグリーンフィールズと呼ばれる、広大で湿った牧草地だ。澄んだ空気のなかを裸の

    hokusyu
    hokusyu 2008/05/26
    http://harelbarzilai.org/words/omelas.txt何故か原文が落ちていた。あわせてどうぞ。
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