チェ・ゲバルトのブログ。 http://ameblo.jp/chedaniel/ つねこのブログ。 http://d.hatena.ne.jp/toled/
僕は 漢字かな交じり文を否定する(というより警鐘を鳴らす)猛者のエントリ 2009-11-27 に感銘を受けるということ をした 僕は この意見に とてもワクワク して そして 概ね賛同 すること をした 僕は 猛者の 漢字を学んできた自分の苦労を否定しかねない考え方 であるにもかかわらず 論理性を軸に冷静に考えている ところと 何といっても考え方が柔軟な点 (気づいていなかったことが多く、はっとした) ところと ちゃんと 自ら主張していることを実践 していて 批判を受け止めて いる ところが イカしている と思った そして 僕は 批判する人は 単に今まで会得するために要した苦労を否定されたくないだけ とか 今漢字を使うことで得ているものを失いたくない(既得権を否定したくない) など という人が多いのではないか? それと 意外と かなだけで書いても 読みやすい かもしれない それと いっそ
■正論11月号 リベラル色の強い鳩山政権がマスコミにもてはやされる一方、自民党総裁選はほとんど盛り上がらず、保守派にとっては気のめいるような情勢が続くが、「こういう時だからこそ、保守は元気であらねばならない」と訴えるのは前航空幕僚長の田母神俊雄氏だ。誌面を刷新した正論11月号に保守が行うべき5つの“作戦”を提案。「今こそ攻勢に転じ、戦後体制の矛盾を正すときだ」と強調している。 “作戦”の一つは、鳩山政権に対して歴史論争を挑むこと。田母神氏によれば自民党政権下ではこれまで、野党やマスコミが大騒ぎするため閣僚らが歴史認識を口にすることは長くタブーとされてきた。一方で野党は、政府側が反対質問できないことをいいことに自虐的な歴史観など言いたい放題で、根拠のないことまで史実として独り歩きしていた。
雑誌『POSSE』http://npoposse.jp/magazine/index.htmlのvol.4に、「サルトル──ストライキは無理くない!」という文章を書きました。これは、サルトルが1952年に発表した論文「共産主義者と平和」を手がかりに1952年のフランスと現代日本の状況を比較し、政治・暴力・大衆の問題について考察した論文です。 サルトルの「共産主義者と平和」という論文は、サルトルがソ連と共産党をアツく擁護し、その「同伴者」となるきっかけとなった論文で、ある意味でとても評判の悪い論文です。ところが、今読んでみると、とても面白いのですね、これが。というわけで、一部を紹介します。 「一人の経営者がタイピストを必要とする。それこそ危機である。三十人の女性が、同じ能力をもち、同じ資格免許状をもって、応募する。経営者は彼女らみなをいっしょに呼び出し、彼女たちが望む報酬を自分に知らせるよう
今年の春、ひとりのオモニがオモニハッキョを卒業されることになりました。 卒業のないオモニハッキョのハズなのに、なぜオモニが卒業をされるのかというと、オモニが「卒業される」とおっしゃられたからでした。いえ、正確には「卒業される」とおっしゃられたわけでは、ないようです。新しい学校に「入学される」とおっしゃられたのでした。だから、オモニハッキョには来られなくなりました、そのようにおっしゃられたのでした。 そのオモニは「え組」でお勉強をされていたK(玉)オモニです。Kオモニは、一年くらい前にハッキョに来られたのでしょうか。日本語の読み書きが、とてもよくお出来になられるオモニで、正直、オモニハッキョに来られなくても十分ではないかと思えるくらい、ひらがなも漢字の読み書きも、とてもよく知っていらっしゃいました。わたしは、昨年の秋の野遊会(ヤユフェ)の時に、Kオモニとお話をさせていただいたことがあり、
20:490 サルトルは次のように述べている。 もし社会がそれ自身を見、殊に自分が見られているということを見るならば、そのこと自体が樹立された価値や体制への異議申し立てとなる。作家は、社会に社会の姿を示して、それを受け入れるかそれを変えるかすることを求めるからだ。そしてとにかく社会は変る。社会は、無智のおかげで保っていた平衡を失い、恥辱と冷笑との間で動揺し、自己欺瞞を行う。このように作家は社会に不幸な意識を与える。*1 サルトルの言葉が正しければ、社会に「不幸な意識」を与える作家の活動が意味をもつためには、まずその前提として、当該社会自身に「自分が見られているということを見る」力が備わっている必要がある、ということになるのではないだろうか。 1 昭和天皇裕仁は、日本帝国主義の被害者であるアジアの民衆の前で、己を恥じたことがあるだろうか。あるいはアジアの民衆の前で恥じる様子がない裕仁を見て
最近、よく「連帯」という言葉に接するようになりました。 昨年からの、パレスチナ問題に関する学習会や、イスラエルによるガザへの空爆、軍事侵攻、ガザの人々の虐殺に抗議するデモなどに参加をするようになって、接するようになった言葉です。それまでは、「連帯」という言葉に接したり、使ったりすることは、あまりありませんでした。「連帯」というのは、ひとつの呼びかけの言葉ですよね。なにか異なるグループに所属するものどうしが、ある共通の目的のために、つながり合ったり、また、単なるバラバラの個人が、つながり合うことによって集団になる、そして、その集団どうしが、また、別の集団と「連帯」をして、つながっていく。そうすることで、バラバラだった個や集団が、だんだん大きなものになっていって、何かを動かしたり、変えたりできるような大きな力になっていく。そんな風に、「連帯」は、ある共通の目的意識や利益を通じて、人と人とがつ
id:mojimojiさんが、私が先に引用した西堂行人のピンター評を批判している。 mojimoji「政治的直接性からの逃走」 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090130/p1 西堂さんは、ピンターの直接的でない政治的意見の表明を評価する。 ここでも「何も起こりはしなかった」が繰り返されている。ピンターの対応は絶妙である。決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。 (http://booklog.kinokuniya.co.jp/nisidou/archives/2007/05/post_22.html) しかし、これは(良く読んでみればわかるが)西堂さんは
font-daさんの記事後半で紹介されている、ピンターについての書評記事より。 決して感情的にならず、あくまで劇の対話のように、ユーモアとアイロニーを手放さない。それがために、かえってBBCの愚挙が鮮明になってくるのだ。あくまで「表現」を通しているから、その研ぎ澄まされた言葉は読者のなかに通り一遍でない感情を巻きおこす。 劇作家らしく、ピンターの言葉は直接的でない。必ずユーモアとシニカルな目をたたえて、事態を見据えている。彼は政治的問題を「政治」で解決できないことを知っている。そこで前述した「知性」や「言葉」の問題が出てくるのだ。 一読して違和感を持つのは、ここではピンターの主張に対してではなく、ピンターが「劇作家らしく」「直接的でない」表現を使っていることに対して共感が寄せられている点です。もちろん、ピンターの主張にも賛成なのでしょうけれど、その手つきは、どこかピントがずれている。たとえ
われわれの主張に関して、誤解がまんえんしているようである。おそらく、われわれの正体をあらわにすべきときがきたのだろう。 異性愛者だと思いこんでいるものたちよ。われわれをみてなつかしくないだろうか? そうなのだ。われわれは、諸君が異性愛者としてほかのものとの境界線が引かれたときに排出されたくずである。諸君はこの排泄物にクイアという名を与えた。 ながいとまどい、くるしみ、涙、怒り、絶望、彼や彼女やあいつの死をへて、われわれは立ち上がった。そしてながいとまどい、くるしみ、涙、怒り、絶望、彼や彼女やあいつの死にいたった。そしてまた立ち上がり、なぶり殺され、嘲笑され、あるいは「尊重」されてきた。 そしてまたわたしたちは立ち上がった。 これまでと同じように、目的はただ一つだ。 異性愛を殲滅し、クイアを解放することである。 間違ってはならない。われわれは、男・女・ゲイ・レズビアンというリストに加えよと要
Posted by :早尾 貴紀 イスラエルのガザ侵攻をめぐって、いろいろと貴重な発言、良心的な発言が翻訳紹介されています。 しかしもちろん、こういった発言が世論の主流を占めているわけではなく、稀少だからこそ拾われて紹介されているということでもあるわけです。 ここで反対に、ひじょうに巧妙にイスラエルの軍事攻撃を正当化する議論を紹介します。論者はマイケル・ウォルツァー(Michael Walzer)。アメリカの政治思想・倫理思想の研究者で、日本でも、その主要な著作が次々と(もう10冊も!)翻訳紹介されている人気の思想家です。共同体の倫理と人権の理論で知られます。 そして彼は、〈9・11〉のときも、アメリカの軍事行動を正当化する代表的イデオローグとして名を馳せました。 それだけではありません。ウォルツァーは、もはや古典とも称される正戦論、『正しい戦争と不正な戦争』を1977年に刊行し、とうとう
ウェストバンク・ラマラの近くビリン村でのイスラエルによるガザ攻撃に対する抗議活動中にイスラエル兵の前に立つパレスチナ人(2009年1月8日)。Photograph: Eric Gaillard/Reuters ガザ地区の市民を殺すな。 - ***海外の記事、エッセイ、生情報の和訳、まとめなど*** 土井敏邦Webコラム http://www.doi-toshikuni.net/j/column/index.html 土井敏邦さんは09年1月8日からイスラエル入り、現地報告をアップしています。"「アミラ、あなたの記事はずっと読んでいるよ。素晴らしい記事に感動しているよ。日本ではあなたの記事を日本語に翻訳してネットで流している人もいるよ」と告げると、彼女は笑顔を見せた。" tnf-UK http://nofrills.seesaa.net/ 風邪を引きながらも独自の翻訳・記事紹介に大活躍中のn
理数系ネタ、パソコン、フランス語の話が中心。 量子テレポーテーションや超弦理論の理解を目指して勉強を続けています! 年明け早々に書いた「新年のあいさつ」の記事で「昨今の人間不信、社会不安を解消する力は僕やこのブログには全くありませんが~」と書いたのがどうも気にかかり、元日は午後から日比谷公園で行われている「年越し派遣村」へお手伝いに出かけた。 どれくらいの規模で行われているのか、多くのボランティアでごった返しているのかと想像しながら閑散とした丸の内線霞ヶ関の駅を出る。公園入口に「年越し派遣村」の看板があった。 案内のとおりに進むと受付があり、ボランティア受付で記帳すると黄色いハンカチを渡された。僕のような飛び込みボランティアは黄色、指示する役割の「委員」の人が緑色のハンカチを腕や首につけることになっている。受付にはこのほか入村者登録、健康相談、弁護士相談、就職斡旋、カンパ受付が設けられてい
きのう書いたことに対して、ご意見をいただきました。ときどき、ブクマをつけてくださっていた方ですね。ありがとうございます。 「ちょっと、どうかな」 http://d.hatena.ne.jp/gerling/20081229 最近、愛読しているページのひとつだけれども、こればかりはちょっとどうかなと思うんで少し。 今から、60年前、あるところに住んでいた人々が、突然その土地をうばわれ、追い出されたのですよ。 そんなことを言うなら、彼らは数千年間さ迷ってきた人たちなんです。それとも、そんな「おとぎ話」には「権利」がないのでしょうか。それは「今」の問題ではないのでしょうか。であるとするならば、はたして「権利」とはどのようなものか、というのが問題になるのでしょう。つまり、「60年前」のことには権利があって、「数千年前」のことには権利がないというのはどういうことか。誰にも知られないように穴に埋め
ブクマがすごいことになっていて、まあ、このままにしとけば格好もつくのだけど。ただ、単純なるポストモダン叩き路線、というのもに違和感はあって。なので、ピントが変にずれるかもしれないのけど、少しだけ、ポストモダンのための言い訳みたいなものを。これで悪評が立ったとしても、それはそれでいいや。 たとえば、下記のような言い方があって、それはそれでもっともな話だ、と僕は思う。 すると次に、この「罪」からハッキリした善悪あるいは道徳に戻りたい、という反動が生じますね。 今、「人権」というようなことを問題にしている人たちは、おそらくそう考え始めているのだと思います。 そうした議論は、いとも単純明快で、ハッキリとした方針も出てきますし、最小限明らかなことがあるということまでも提起できます。なぜなら、「人権」を守ることは善であり、それを侵すことは悪に決まっているからです。そうしますと、訳のわからない罪深さ、と
「障害認識の パラダイムを 転換すれば「障害者」の表記など 問題ではない」と表現しても いいです。 差別のマッチポンプ - E.L.H. Electric Lover Hinagiku うえの記事に 宿題を いただいていたのですが、ずっと反応できずに いました。うえの記事でid:y_arimさんは「障害者」や「障がい者」という表記の問題点を 指摘し、「障碍者」と表記することを 提案されています。 わたしは8月26日に、うえの記事に つぎのようにコメントしました。 「しょーがいしゃ」という ことばは、さまざまな たちばにある ひとが、つかっていますよね。名ざす側も、名ざされる側も。 名ざす側の倫理として議論するのも いいのですが、名ざす/名ざされるという関係を こえて、「名のる」ことばでも ありますよね。自称としてね。 どのように表記するにせよ、音にすれば全部「しょーがいしゃ」です。不具者な
根拠なき希望 2007年12月24日(月) 日本キリスト教団香里ケ丘教会クリスマス・イヴ音楽礼拝説教「恐れることはない」改題 説教時間:約20分……パソコンに取り込んでからゆっくりお読みください。 礼拝堂(メッセージ・ライブラリ)に戻る 「キリスト教・下世話なQ&Aコーナー」に入る 教会の案内図に戻る 聖書:マタイによる福音書1章18〜25節 (新共同訳・新約) イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。そ
Roll a dice It's either one, two, three, four, five, or sixIt's either an even or an odd number Now make a predicationLet's say it's an even number What are the odds? One in two. 50% Now let's say it's gonna be an even number twice in a rowWhich means your odds are gonna be 25% What if it's gonna be three times in a row?That'll be a half of 25% Four times?A half of a half of 25% Now thinkNow just
規範は ふたつに分類できると おもいます。ひとつは、できあいの規範。もうひとつは、つくられつつある規範。 いいかえると、独裁の規範と、民主主義的な規範。 独裁の規範は、日常的ファシズムによって、社会の すみずみまで いきとどいています。そして、そのイデオロギーを ささえる御用学者が 存在します。独裁は、いつも偽装工作をします。独裁の規範は、もっともらしく ふるまいつつも、詳細な研究によって かんたんに くつがえされる しろものです。 独裁の規範は、完成されたものだと おもわれています。 それにたいして 民主主義的な規範は、ゆれうごき、ぶつかりあいながらも、ひびきあうものです。ひとの数だけ規範があるという視点に たち、それぞれの関係性のなかで おりあいをつけたり つけなかったりしながら、かたちを かえていくのが民主主義的な規範です。民主主義的な規範は、完成形ではなく、つくられつつあるものです
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