明治23年作成になる奈良町の地籍更正図。右上に「奈良町全圖」と記し、その下に曲尺40分の1の縮尺がある。 「本図ハ奈良町各大字ヲ実測セリ、弐千分一地籍図ニ拠リ更ニ四千分一之全図ト為セシ者也 但シ、曲尺九分ヲ以テ壱町ト為ス 明治廿三年三月」と記載。 奈良町は同22年4月に発足するが、その範囲は、押上町外20ヶ町村、高畑村外17ヶ町村、中辻町外32ヶ町村、椿井町外35ヶ町村と、法連村を除く大豆山町外41ヶ町村。 本図のもとの地籍図は、関野貞著『平城京及大内裏考』(同40年) の緒言に、「明治22年調査の各町村地籍図縮尺二千分一図を参照して大字、小字の境界線を加え」とあるように、県内に揃っていた。 凡例のうち、建家は赤、田は黄、畑は肌色で示し、神社は幣社・県社・一般の神社、墓地は普通墓・御陵・御墓、樹木は松樹・杉樹・雑樹、 学校は師範学校・高等小学校・小学校に区分。境界は詳細で、国界、郡界、村界
南都に判官はうぐわん殿おはします由六波羅に聞こえければ、北条ほうでう大おほきに驚き、急ぎ鎌倉へ申まうされけり。頼朝梶原かぢはらを召して仰おほせられけるは、「南都の勧修坊くわんじゆばうと言ふ者の、九郎に与くみして世を乱するなるが、奈良法師ほふしも大勢討たれてあるなり。和泉いづみ、河内かはちの者ども九郎に思ひ付かぬ先に、これ計らへ」と仰せられければ、梶原申しけるは、「それこそ由々しき御大事にて候さうらへ。僧徒の身として、然様さやうの事思し召し立ち候はんこそ不思議に候へ」と申すところに、また北条より飛脚到来して、判官南都にはおはせず得業とくごの計らひにて隠し奉る由申されければ、梶原申しけるは、「さらば宣旨院宣ゐんぜんをも御申し候ひて、勧修坊をこれへ下し奉りて、判官の御行方ゆくへを御尋たづね候へ。陳状ちんじやうに随ひて、死罪流罪にも」と申しければ、急ぎ堀の藤次とうじ親家ちかいへに仰せ付けられ、五十
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