タグ

ブックマーク / d.hatena.ne.jp/matsuiism (25)

  • 「破局論」のためのメモ - heuristic ways

    私がジャン=ピエール・デュピュイのことを知ったのは、スラヴォイ・ジジェク氏の『ポストモダンの共産主義』(ちくま新書、2010年、原著2009年)を読んだときだった。 ジジェク氏はデュピュイの次のような一節を引用していた。 大惨事は運命として未来に組みこまれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。(……)たとえば大災害のような突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずがなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること――それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生み出しているのだ。  私が「大惨事」の例として当時(2010年)思い浮かべたのは、1995年の阪神大震災や地下鉄サリン事件、2001

  • サン=シモンと「脱政治化」 - heuristic ways

    鹿島茂『怪帝ナポレオン三世』を読むと、フランス第二帝政期(1852〜70年)は、鉄道建設、金融機関やシステムの改革、都市改造、パリ万国博覧会、デパートによる商業革命など、その後の日にも影響を与えたと思われる産業主義的な社会変革の手法が実験・開発された時代だったということがわかる。 ナポレオン三世は基的にサン=シモン主義者であり、「産業皇帝」の異名をとったという。では、サン=シモン主義とは何なのか。 サン=シモンについて私が知っているのは、オーウェンやフーリエと並んで、マルクス=エンゲルスが『共産党宣言』(1848年)の「批判的=空想的社会主義および共産主義」の項で取り上げていたこと、そして、『産業者の教理問答』などの著述を発表していることぐらいだった。 オーウェンやフーリエについては、近年再評価の兆しもあるようだが、サン=シモンについてはどうなのだろうか。  『世界の名著 続8――オウ

    lotus3000
    lotus3000 2013/03/18
    ナショナリズムと産業主義のどん詰まりの果ての帝国主義。
  • 重信メイ『「アラブの春」の正体』 - heuristic ways

    チュニジアで大規模なデモやストライキが起き、政府に対する抗議運動が高揚して、ついにベン・アリー大統領の亡命を引き起こし、「ジャスミン革命」と呼ばれる事態に至ったのは2011年1月のことである(正確には前年12月後半から各地にデモが拡大していた)。その衝撃はエジプトなど周辺諸国に飛び火し、こうした一連の民衆蜂起と民主化の動きはやがて「アラブの春」と呼ばれることになる。 当時私は北村透谷や自由民権運動に関するなどを読んでいたが、「自由民権運動」が英語で“Freedom and People’s Rights movement”ということを知り、「(私も詳しい事情は知らないが、報道で知る限り)つい最近チュニジアで起こり、エジプトなどの周辺諸国へ波及しているのは、広い意味での“Freedom and People’s Rights movement”の延長ではないだろうか」と書いたりした(201

  • 漱石『草枕』をめぐって - heuristic ways

    何度目の挑戦だろうか。今回、私は初めて漱石の『草枕』(1906年)を読み通すことができた。 実はこの小説には、画工の「余」が「女」(那美さん)に向かって、小説というのは、「初から読んだって、仕舞から読んだって、いい加減なところをいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか」と言う場面がある。「筋を読む」気なら、初から仕舞まで読まなけりゃならないが、「只机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んで」みるほうが面白いのだと。 漱石もこの小説に関しては、そういう読まれ方を望んでいたのかもしれない。  『草枕』の「筋」というか、物語(プロット)の骨格に関しては、柄谷行人氏が次のように指摘している。 たとえば、『草枕』では、一見すると、山中の桃源郷が描かれていてそこにも下界の現実が侵入してくるといったふうにみえる。だが、当はその逆である。招集されて満州の野で戦わねばならない青年や、破産したあげ

    lotus3000
    lotus3000 2012/11/01
    知識を断絶しているからこそ電子化しないと見えてこないものがあるかもしれない。
  • エンゲルス『住宅問題』をめぐって - heuristic ways

  • 足尾銅山鉱毒事件をめぐって 2 - heuristic ways

    牧原憲夫氏は、足尾銅山が「生産合理性、経営合理性ではきわめて優れ」た、「当時の最先端技術を導入した近代的鉱山」だったことに注意を促している。 古河市兵衛は坑内外を民間初の電話で結び、選別機械や新型溶鉱炉を導入したほか、水力発電所を建設して排水ポンプ・巻揚機を電動化し、坑口と精錬所の間に電気鉄道を敷設した。また製品輸送のために、山を越えた日光との間をロープウェイで結び、東北線を利用するルートを開発した。帝国大学卒の技術者や慶応出身の事務職も採用した。この時期、銅は生糸・茶などとともに日の主要輸出品だったが、こうした努力の結果、九一年の産銅量は八八年の三七〇〇トンから七五〇〇トンに増大し、足尾だけで全国産銅量の三九%を占めた。労働者数も八三年の九〇〇人弱から九六年には一万人を超えた。「坑夫(タタキ)六年、溶鉱夫(フキ)八年、カカアばかりが五十年」と歌われたように、労働条件は劣悪で労働者の生

  • 中世の当事者主義 - heuristic ways

    以前少しだけ読みかけて、そのままになっていた郷和人『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書、2009年)に再挑戦しようと思って、最初から読み返してみたら、ちょっと吃驚したことがあった。 第1章「古代天皇は厳然たる王だったか」の2「権力は徹頭徹尾、受け身である」という節で、中世の当事者主義について書かれていることが、渡辺京二『日近世の起源』(原著2004年)を思わせるような内容だったのである。もちろん、これは別に「剽窃」や「盗用」を意味するのではなく、両者が参照・依拠している典拠がたまたま同じだったということのようだ。渡辺氏は、笠松宏至の『日中世法史論』『法と言葉の中世』『徳政令』などを参照・引用文献として挙げており、郷氏も「代表的な法制史家、笠松宏至」に言及している。渡辺・郷両氏がそれぞれ互いのことを知らずに、共通の参考文献を基にして同じようなことを書いたということかもしれない。*1

  • 丸川哲史『冷戦文化論 忘れられた曖昧な戦争の現在性』 - heuristic ways

  • 朝鮮通信使と徳川期の儒学など - heuristic ways

    姜在彦『朝鮮通信使がみた日』を読んで、私が個人的に感動したエピソードの一つは、伊藤仁斎(1627−1705)の『童子問』などの著作が早くも一八世紀の朝鮮に伝わり、読まれていたということだった。 伊藤仁斎の第二子で、伊藤東涯の異母弟に当たる伊藤梅宇(1683−1745)が、享保度(1719年)の通信使のとき、福山藩の儒官をしていて、瀬戸内航路の港町鞆ノ浦(とものうら)で書記・成汝弼と筆談した記録が残っているらしい。そのとき梅宇は、父(仁斎)が「平素言論したところを集めて一書となし、名を『童子問』とした。明日芳洲公(雨森芳洲)に託してお贈りしたい。幸いにして貴国に伝わることは、先人も願うところであろう」と成汝弼に伝えたという。 梅宇も「朝鮮の文人たちの著作をよく知っており、成俔〔ソン・ヒョン〕の『慵斎叢話』、徐居正〔ソ・コジョン〕の『東人詩話』、柳成龍〔ユ・ソンリョン〕『懲■録』*1などにつ

  • 渡辺京二『北一輝』 - heuristic ways

    渡辺京二氏が『北一輝』(ちくま文庫、2007年、原著1978年)という著書を書いていることを知り、ネットで取り寄せて読んでみた。これは北一輝の評伝であり、北の革命理論や戦術、その認識の修正や深化、北自身の変質や転落のプロセスを読み解いた試みである。「あとがき」によると、著者は、「北一輝問題」(1975年)という文章を書いた後、「北を十分論じ尽せなかった気がかり」があったが、今回の著書で「彼についてはすべてを論じ尽したという思い」に達したという。 私が少し驚いたのは、書の中で渡辺氏が、松健一氏や松清張氏の北一輝論を、「けちょんけちょんに」という感じで厳しく批判していることだった。松健一氏の思い込み*1や読み間違い*2に対する指摘はなるほどと首肯させられたが、松清張氏が北の「理論」を理解する能力をもたないという批判*3はどうだろうか。 基的に松清張氏は歴史家としての立場から北の歴

    lotus3000
    lotus3000 2011/08/29
  • 市民権と武装権 - heuristic ways

    私が最初に読んだ小熊英二氏の著書は、『市民と武装――アメリカ合衆国における戦争と銃規制』(2004年)だった。これは、「市民と武装――アメリカ合衆国における「武装権」試論」と「普遍という名のナショナリズム――アメリカ合衆国の文化多元主義と国家統合」の二の論文を収めたもので、前者はもともと1994年に発表されている(後者は1992年に執筆したが、未発表だったとのこと)。 最初に読んだときは「アメリカの銃規制問題」の歴史的背景を考察したものというぐらいの印象しか持たなかったが、今回再読してみて、氏の問題意識はむしろ、市民権の問題を「武装権」の歴史から捉えるというところにあることがわかってきた。 一七世紀イギリスの思想家ハリントンによれば、土地が君主や貴族によって独占されていた時代は傭兵や貴族が軍の主力となるが、共和制では土地を所有して自立した市民は自らの財産を守るため武装しており、こうした人

    lotus3000
    lotus3000 2011/07/19
  • 教育と戦闘力 - heuristic ways

    小熊英二氏は、「いま歴史教育に何が求められているか――可能性としての日」(一九九九年、『私たちはいまどこにいるのか』所収)という文章の中で、身分制社会(江戸時代)の教育と明治以降の近代教育の違いについて、実に興味深いことを言っている。 たとえば江戸時代には「寺子屋というものがあり、藩には藩校というものがあり、読み書きそろ盤を教えたといわれている」が、これはわれわれが馴染んでいるような小学校とは全然違う。そもそも「社会のつくり方の前提」が違っているので、農民、武士、商人といった身分に生まれた者は、将来それぞれ農民、武士、商人になることが決まっている。だからそれぞれの身分によって、学ぶこと、習うことが違う。たとえばそろ盤を教えているのは、「主に都市部の商人の子どもを相手にした学校」が中心になっている。また、読み書きといっても、主に「手紙の書き方」を教えていることが多い。これは、「主に農民のな

    lotus3000
    lotus3000 2011/07/16
  • 小熊英二『私たちはいまどこにいるのか』 - heuristic ways

    このの発行日は2011年3月10日。その3カ月後の6月11日、小熊英二氏は脱原発デモに参加している。《日中、7千人が参加し全国最大規模になった新宿のサウンドデモでは、「社会学者の小熊(おぐま)英二さんです」と紹介されてあいさつした小熊さんが「楽しくやりましょう!」と呼びかけた。》(「6・11デモ 新旧混在 労組の旗と若者の音楽」朝日新聞、6/20) 「3・11以後」という言い方があるが、私はむしろ今問われているのは、3・11以前の平常時にどれだけのことを考え、どんな風に自らの言動に対する「社会的試練」(小林秀雄)を経験してきたかということだと思う。*1 小熊英二氏は、「あとがき」(二〇一一年一月)で、こんなことを書いている。 またドイツなどでは、七〇年代からの経済の低迷や失業率の増大があっただけでなく、八〇年代には中距離核ミサイル配備による欧州核戦争の危機、チェルノブイリ原発事故といった

    lotus3000
    lotus3000 2011/07/16
  • 『満韓ところどころ』雑感 - heuristic ways

    『満韓ところどころ』を読み終えた。途中でふと気づいたが、漱石がこの旅行をした1909年は、まだ清朝の時代である。中村是公の馬車の「別当(べっとう)」(=馬丁)が「辮髪(べんぱつ)を自慢そうに垂らして」いるという描写がある。ちくま文庫版の注によると、辮髪は「もともと満洲族の習俗で、のち、満洲族が清国を建ててから中国人一般に強制したが、中華民国になって廃止された」とある。辛亥革命によって中華民国が成立するのはこの2年後(1911年)ということになる。  私がこの紀行文を読みながら疑問に思ったのは、漱石は漢詩や南画などの中国教養を充分持っているのに、現実の「支那人」や「朝鮮人」に対しては、ごく普通に蔑視的な眼差しを注いでいるのは何故か、というようなことだった。 人力(車)は日人の発明したものであるけれども、引子(ひきこ)が支那人もしくは朝鮮人である間はけっして油断してはいけない。彼等はどうせ

    lotus3000
    lotus3000 2011/07/13
  • マレーシアのトリウム汚染訴訟 2011-06-29 - heuristic ways

    私も最近まで知らなかったが、「トリウム原発」というのが注目されているらしい。注目度を高めたのは福島第一原発事故以降のことだが、それ以前から、「レアアース」との関連もあって、研究開発が進んでいたようだ。 たとえば昨年11月10日のNHK「クローズアップ現代」では、「放射性物質“トリウム”最前線」と題して、以下のような内容の番組を放送したらしい(リンク先で取材VTRの動画が見れる)。 ハイブリッド車や携帯電話などのハイテク機器に欠かせないレアアース。中国の輸出停止で確保が課題として浮かび上がっているが、知られざる大きな課題がある。トリウムと呼ばれる放射性物質が含まれているのだ。採掘の際に出て来るトリウムをどうするか、各国にとって悩みとなっている。ところが欧米を中心に、トリウムの積極利用が検討されはじめている。ウランに加えて原子力発電所の燃料として使う動きや、核廃絶にも寄与するとの期待すら高まっ

    lotus3000
    lotus3000 2011/06/29
  • 高木仁三郎『原子力神話からの解放』 - heuristic ways

    数日前、書店に行ったとき、二冊の文庫を買った。高木仁三郎『原子力神話からの解放――日を滅ぼす九つの呪縛』(講談社+α文庫、20011年、原著2000年)と堀江邦夫『原発労働記』(講談社文庫、2011年、原著1979年)で、どちらも旧著の復刊である。 とりあえず高木仁三郎氏のから読んでみたが、私のような素人にもわかりやすく、ほとんど違和感なく読めた。原発に対する理論的且つ実証的な批判は、すでに十年以上前の時点で可能であり、喫緊の課題として提起されていたのである。 書の目次を以下に掲げる。 文庫版まえがき 的中した原発事故の予言   西尾漠 プロローグ――原子力の歴史の総括として 第1章 原子力発電の質と困難さ第2章 「原子力は無限のエネルギー源」という神話第3章 「原子力は石油危機を克服する」という神話第4章 「原子力の平和利用」という神話第5章 「原子力は安全」という神話第6章

    lotus3000
    lotus3000 2011/06/25
  • コモンズと能力 - heuristic ways

    以前デュルケムの『自殺論』(原著1897年)を読んだとき刺激を受けたのは、芸術・道徳・宗教・政治的信念・科学などの「超肉体的な」(肉体の要求からかけ離れた)人間活動の高度な形態は「集合的な起源」をもっているということ、「というよりはむしろ、この高度な形態が、われわれ各人に体現され、個人化されている社会そのものなのだ」という指摘だった。 …つまり、そもそもの初めから、個人の中には「社会」(集合的な力)が埋め込まれている。あるいは社会とは、個人を巻き込み、個人をこえて運動する「集合的生命」の流れのようなものである。 デュルケムは、「社会は物的な事実をもふくんでいて、しかもその物的な事実が、共同生活のなかである質的な役割をはたしている」と言っているが、デュルケムがこの「物的な事実」の例として、「家屋やあらゆる種類の建築物」、「交通・運輸路」、「道具や機械」、そして「書き言葉」などを挙げているの

    lotus3000
    lotus3000 2010/09/01
  • 孫文の「民族主義」について - heuristic ways

    先日、図書館で何気に孫文の『三民主義(抄)ほか』(中公クラシックス、2006年)を借りてきたのだが、「三民主義」の最初の「民族主義」を読み始めたら、これが実に刺激的で、思わず「孫文やばい…」と呟いてしまった。 私は孫文のことはあまり知らないのだが、竹内好が若い頃に『三民主義』を読んで感動したとか(「孫文観の問題点」1957年)、最近では横山宏章氏が『中国の異民族支配』で、孫文はもともと「韃虜〔だつりょ〕の駆除、中華の恢復〔かいふく〕」を唱えるナショナリストだったが、辛亥革命後に彼の意に反して「五族共和」を唱えざるをえなくなったと指摘しているのが引っかかっていた。 ただ、孫文の「民族主義」を読むと、孫文の言う「中華の恢復」=「民族主義」が、たんなる漢族中心主義とは限らないのではないかと思えてくる。なぜなら、第一に、この当時*1、すでに「中国の民族主義はすでに失われている」と孫文は見ており、「

    lotus3000
    lotus3000 2010/04/26
  • 「文脈形成する私」と「文脈規定される私」 - heuristic ways

    昨日は広島でコンビニの商品展示会があったので、これに参加してきた。展示会は毎年春と秋の2回あるのだが、なるべくなら行きたくない。理由は二つで、一つは距離が遠いこと。ワゴン車で高速道路を通って行っても、片道2時間半はかかる。朝8時くらいに出発しても、会場で2〜3時間過ごすと、戻ってくるのが大体夕方の4時過ぎになる。もう一つは時給が出ないこと。つまり、これは「仕事ではない」が、オーナーから参加を要請されるとなかなか断れないという意味では仕事(労働)である。 労働者の権利から言えば、時給が出ない「時間」を不当に拘束されるのだから、参加する義務はなく、断ってもいいはずだが、断るには「オーナーと対決する」覚悟と労力を要する。今回初めて参加した同僚は、「時給が出ないなら行く義務はないはず」と言って、オーナーと対決する姿勢を示していたが、その矢先に当のオーナーが急病で入院したため、「今回は行くけど、次か

    lotus3000
    lotus3000 2010/04/16
  • 経済的豊かさと社会的豊かさ - heuristic ways

    汪暉(ワン・フイ)氏は、『思想空間としての現代中国』の第2章「1989年の社会運動と中国の「新自由主義」の歴史的根源」の最後の節で、こういうことを書いている。 ここで以上の分析を総合して、いくつかの社会変革の主な志向について素描してみよう。まず、市場の拡大過程がもたらす経済的不平等は、政治、経済、文化その他の領域における不平等と常に密接に結びついており、したがって自由を勝ち取るための闘争(労働力契約の自由、交換の自由、政治的自由など)は同時にまた必ず社会的平等を勝ち取るための闘争となる。平等の要求と自由の要求を完全に対立させる論法は必ず退けなければならない。(後略) 私はこれらの志向を以下のように概括してみたい。それは市場の民主的な制度をめぐる思考であり、単純な経済発展ではなく、社会発展をめぐる思考であり、グローバル化という新たな条件の下で、我々自身の歴史的伝統の意味をあらためて理解するた