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智恵子抄とあとで読むに関するmoewakaのブックマーク (2)

  • 詩「人生遠視」考(2) - Tr,平居の月曜プリント

    1行目と2行目が重なり合うことは間違いがない。「足もとの鳥」は、「自分の」と自分から極めて近い所にいるものとしての共通性を持つ。「たつ」はもちろん「飛び立つ」の意味だから、鳥が飛び立つことで、自分のが発狂したことを比喩することが、明確に示されていると言える。昨日引いた3人の解釈は、どれも智恵子の発狂が突然のことであったことに対する驚愕を表すとしている。それは決して間違いではないだろう。 3行目の「自分の着物がぼろになる」で、上杉氏は「着物」を「」の比喩であるとし、大島・湯原氏は光太郎の日常生活全体を意味するとする。「着物」を「」の比喩とした場合、この詩の中には、「鳥=」と「着物=」という二つの比喩が、重層的に含まれていることになる。果たして、高村光太郎という少なくとも外見的には極めて平易な詩を書き続けてきた人が、わずか5行の詩の中に、それほど面倒な構造を組み込むだろうか。私には

    詩「人生遠視」考(2) - Tr,平居の月曜プリント
  • 詩「人生遠視」考(1) - Tr,平居の月曜プリント

    最近、授業で『智恵子抄』を読んでいるという話は、少し前に書いた。 実は、この詩集に含まれる作品の中で、どのように解釈すべきか、以前から悩んでいた作品がある。今回も、その作品を前にして思案をした。そして、私がこの詩をどう読むか、少し書いておこうか、という気になった。 人生遠視 足もとから鳥がたつ 自分のが狂気する 自分の着物がぼろになる 照尺距離三千メートル ああこの鉄砲は長すぎる この詩は、智恵子の狂気に触れた最初の詩、智恵子のことを「」と呼んだ最初の作品として、『智恵子抄』の中で、決して避けて通れない位置を占めている。だから、あまた書かれた高村光太郎論もしくは『智恵子抄』の作品論において、誰もがやむを得ず言及はする。しかし、解釈に踏み込んだものは少ない。誰もが、戸惑い、解釈に悩んだ結果として、深入りすることを避けているような気がする。つまり、この詩についての言及が少ないのは、自明だか

    詩「人生遠視」考(1) - Tr,平居の月曜プリント
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