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言葉に関するnagonaguのブックマーク (4)

  • 「内心の自由」ってなんなんだ? - 遠方からの手紙(別館)

    http://d.hatena.ne.jp/kutabirehateko/20100421/Second_Rape 一般的なものであれ、特定の人間に対するものであれ、人間の様々な行為や行動に対する批判的な言及は、人間の意識、つまりはその内面に対する問いかけを伴わざるを得ない。いささか型にはまったものが多いとはいえ、「差別」はいけない、「いじめ」はよくない、というような、よくある一般的な啓蒙だってそう。人間の意識=内面への問いかけを伴わない批判など、なんの現実的な変革ももたらさない、無力な批判にすぎない。 たとえば、アメリカでの黒人差別に反対し抗議した人らの活動は、なによりも、そのような差別を当たり前のもの、自明のこととしていた人らの意識=内面への問いかけを伴うものであったはず。そして、そのような批判を多くの人が正当なものとして受け入れた結果、現在では、少なくとも、公然たる「人種差別」は非難

    「内心の自由」ってなんなんだ? - 遠方からの手紙(別館)
    nagonagu
    nagonagu 2010/04/23
    id:PledgeCrew,「保証」が気になる。内心の自由など誰も「保証」できないのは自明。しかし我々の社会がそれを「保障」するのも自明。この違い問題ではない?
  • ことばに見放されるということ。 - kananaka's blog

    ことばを私たちがうばわれるのではなく、私たちがことばから見放されるのです。ことばの主体がすでにむなしいから、ことばの方で耐えきれずに、主体であるわたし達を見放すのです。 (『海を流れる河』"失語と沈黙のあいだ"より引用) そう日社会へ警鐘を鳴らしたのは、詩人石原吉郎(1915-1977年)である。彼は24歳で召集され、敗戦後ソ連のラーゲリ(強制収容所)にて抑留、その後スターリン死去による特赦で帰国を果たすまでの8年を、シベリア各地を転々と過ごした。懐かしい祖国の土を踏んだ時、石原はすでに38歳になっていた。 石原が身を投じた最北8年の歳月は、私の想像も及ばぬ世界である。しかし、彼が遺した散文からその苛酷さを想像することは可能だ。 十七のときに抑留され、ハバロフスクで二十二になったこの<少年>が、声をころして泣いているさまに、私は心を打たれた。泣く理由があって、彼が泣いているのではなかった

    ことばに見放されるということ。 - kananaka's blog
    nagonagu
    nagonagu 2009/12/19
    “ことばのすべてが虚しく、実態を伴っていないからだ。血が通っていないからだ。それが、実態を知らない者のことばの限界であるからだ”御意
  • 再会、再開 - アルゴンのディープサウス通信

    この先、どこまで回復するかの目途も立たない娘を抱え、薄氷を踏むような生活が始まってからもうすぐ4年になる。私自身、何とかまともな生活を送るべく、絶えず際どいバランスを保つ努力はしているつもりだが、途切れることなくそうした緊張が続いていると、知らずのうちに弛緩して思わぬ危険地帯に流されそうになることもある。あるいは外的条件による負荷が加わって薄氷がミシミシと音を立てるようなことも往々にして起こる。ここしばらくそんな条件が重なり、負担を軽減しなければとつい能的に判断し、このブログを閉鎖状態にするという行動に出てしまっていた。 先週の金曜日、名古屋のドケ君が大阪にまで遊びに来てくれた。久しぶりにたっぷりと話し込んだ。何度も書くけれど、どうしてここまでというほど、相当に歳が離れているにもかかわらず彼とは当によく話が合う。次の日、名古屋に帰る彼と一緒の新幹線に乗り、私は東京に向かった。ドケ君より

    再会、再開 - アルゴンのディープサウス通信
    nagonagu
    nagonagu 2009/07/04
    コメントした。Auld lang syne=Kenny Gの演奏
  • 日本人の朝鮮語、朝鮮人の日本語――むすびつける ことば、きりはなす ことば - mujige’s diary

    ちょうせんご(朝鮮語)の ほんやくを していると、ときどき ざいにち・ちょうせんじんから 「いいもの よませて くれて ありがとう」などと おれいの ことばを もらうときが ある。 そんなとき、うれしい きもちが ないではないけど、その いっぽうで こころぐるしいような もうしわけないような きもちにも なる。 なぜ ざいにち・ちょうせんじんが ちょうせんごの ほんを そのまま よめないのか。そして、にほんじんによって にほんごに ほんやくされた ものを よまなきゃ いけないのか。 それは にほんじんが ざいにち・ちょうせんじんから ちょうせんごを うばって にほんごを おしつけて いるからだ。 * わたしが ちょうせんごを まなぶことが できたのは、ちょうせんじんが ちのにじむ どりょくを し、あるときは もじどおり いのちがけで、にほん・ていこくしゅぎ(日帝国主義)から ちょうせんご

    日本人の朝鮮語、朝鮮人の日本語――むすびつける ことば、きりはなす ことば - mujige’s diary
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