かな漢字変換ソフト 翻訳 あとひとつは?
60万年前、ヒトは2つのグループに別れた。一方はアフリカにとどまり、「ホモ・サピエンス」つまり現生の人類である我々になった。 もう一方はアフリカからアジアへ、次いでヨーロッパへと旅立ち、「ホモ・ネアンデルターレンシス」ネアンデルタール人になった。 すでに絶滅したネアンデルタール人は我々の祖先ではなく、むしろ同じ時代を生きてきた兄弟に近い。 だが両者はエデンの園のような牧歌的な楽園で、仲睦まじく暮らしたというわけではなさそうだ。領土や資源をめぐる血で血を洗う争いが現代にいたるまで失くなっていないように、どうやら彼らもまた争い続けてきたらしい。 縄張り意識と群れ 『The Conversation』誌では、生物学や考古学的な調査で明らかになった証拠をもとに、ネアンデルタール人は現生人類に匹敵する危険な戦士であり、10万年にもわたり我々の祖先と戦争を続けきたと解説している。 ライオンやオオカミを
久夛良木は1987年6月16日から2泊3日にわたるソニーと任天堂の合同合宿に、スーパーファミコン開発が一段落した1989年頃にも提案している。当時の任天堂はCD-ROMに消極的で「ソニーさんでやってください」と返答している。丸山によれば久夛良木は京都の任天堂本社に通っている間中「CD-ROMでやるべきだ」と粘り強く進言し続けた結果、任天堂は「どうにもならないと思うが、CD-ROMをやっていい」とOKを出した[7][注釈 4]。 1989年4月にテレビゲームではなく液晶画面を持ったカセット式のハンディーゲームマシン「ゲームボーイ」が発売され大ヒットしていたが、ファミコンの人気は既にピークを過ぎかけている事が前年の実績から明らかになっていた。後にも、ソフトメーカーのスタンスは変わらず問屋の倉庫は売れないソフトが大量に溢れることになった。そして任天堂はファミコンの後継機(スーパーファミコン)の市
フランス革命単語 252件 フランスカクメイ 4.3千文字の記事 22 0pt ほめる 掲示板へ 記事編集 背景テニスコートの誓い革命勃発ルイ・エスケープ新政府樹立恐怖政治総裁政府、そしてナポレオンへ……結果関連動画関連商品関連コミュニティ関連項目掲示板フランス革命とは、フランスで起きた市民らによる「革命」である。1789の7月14日に、それは起こった。 背景 独立に成功したアメリカ合衆国や、産業革命直前のイギリスが近代へと向かう中、フランスはブルボン朝による絶対君主制が依然として続いていた。ルイ14世から続く戦費による借金、ルイ15世治世期のバブル崩壊、アメリカ独立戦争への関与によって、フランスは見るも無残な赤字経済を辿っていく。 国民は、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民、といった具合で区別されていた。第一・第二の身分は免税や大土地所有権、加えてすべての要職を掌握し、年金
第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺が行われたアウシュビッツ強制収容所。そのガス室跡の地中から発見された“謎のメモ”。書き残したのは、ユダヤ人でありながらナチスの大量虐殺に加担させられた「ゾンダーコマンド」と呼ばれた人たちだった。未だ多くの謎が残るホロコーストの実態。地中に埋もれていた「死者たちの告白」に迫る。 大量虐殺の実態に迫る鍵 第二次世界大戦中、ナチスドイツが組織的に行った「ユダヤ人の大量虐殺」。その犠牲者は、600万人に上るといわれている。中でもポーランド南部にあった「アウシュビッツ強制収容所」では、およそ110万人がガス室などで殺されたとされる。しかし、現場は終戦間際、証拠隠滅を図ったナチスによってほとんどが破壊された。アウシュビッツの跡地では、大量虐殺の実態の検証が今なお続けられている。 「犠牲者の遺品や資料から分かった事実を世界に伝えなければなりません。大量虐殺の実態は、未
8世紀ごろのつぼ(奥)に封じられていた木の人形。中央の人形には腹と足に木のくぎが打ち込まれている=奈良市の埋蔵文化財調査センターで2020年8月31日午前10時43分、稲生陽撮影 平城京跡(奈良市)で発掘され、使い方がよく分かっていない出土品を集めた変わった特別展が、同市大安寺西2の市埋蔵文化財調査センターで開かれている。こうした「用途不明品」は市が収蔵する出土品でも約2割を占めるが、「説明が難しい」として全国でもあまり公開されていないという。【稲生陽】 人の顔が描かれたつぼ、内側で二つに仕切られたかめ、花の紋様をかたどった土器製スタンプ――。会場には変わった形などをした土器や木製品など約260点が並ぶ。 1980年に平城京跡の発掘調査を開始した市教委は、コンテナ3万個分の出土品を収蔵。一般的な土器や瓦であれば、周囲の出土品と比較しての考古資料となる。しかし、平城京跡でしか見つかっていない
本日は、ゲーム産業の未来をテーマにお時間をいただいております。 私見では、過去40年と今後とはやや不連続ですが、一貫する本質を理解しなければ将来を見失うので、時間は非常にタイトですが、あえて過去と未来、双方をお話しします。 本日の流れです。 まずはコンピュータゲームの定義。 ゲームに関する論説に手応えのあるものが少ないのは、考察対象が定義されていない事も一因と考えるからです。 次にこれまでの40年の歴史をお話しします。 ゲーム産業は、5年から10年毎に、断絶とも見えるような大変革、主役の交代を繰り返してきました。しかしながら、そうは言っても、ある流れに沿って直線的に進んできたというのが私の見立てです。 ところが、最早その流れの延長では通用しなくなったのではないか。現在は、不連続な未来への過渡期にあたると考えています。 では、先の見えない過渡期にいながら将来をいかに占うか。その点について次に
「ファイナルファンタジー・クリスタルクロニクル」(長い・・ので以下、FFCC)のリマスター版が発売されました。 このタイトル、実はスクウェアが任天堂と取引再開した記念碑的タイトルなんです。 これを機会に、任天堂との取引再開の経緯、また、このタイトルが実は当時のスクウェアの革新について重要な役割を担っていたことについて、書いてみます。 任天堂出禁私が着任した2000年時点でスクウェアはソニーのプレイステーション(以下、PS)以外にタイトルを供給しておらず、任天堂から取引拒否をされている唯一のゲーム開発会社だった。 どのプラットフォームにも供給できる選択肢を持っているのが自然であるし、携帯ゲーム機を製造しているのは任天堂だけだったので、この観点でも取引は必須のはず。ところが、着任時のスクウェア社内では、出入禁止になっている事がシリアスに捉えられていなかった。 解せないながら、2000年内は管理
2016年2月末、スクウェア・エニックスを離脱して数か月になり、これまで伝えられなかった事もお話しできる立場になりました。 証券時代16年、ゲーム時代16年と、気がつけば中々の古参。 改めて見渡すと、アーケードゲーム、家庭用ゲーム、PC、スマホゲームと全ての時代を経験し、かつグローバル展開を行っていた方がほとんどいらっしゃらない事に気づきました。 またこの間、経営者として、業界リーダーとして、数々の貴重な局面に立ち会っています。 事実を忘れてしまったり、自分の都合のいいように記憶を塗り替える前に、皆さんにお話しする意味があると思いました。 経営者は、その足跡について1ミリ単位で説明できなければならないというのが、私の持論です。 無論、その時々の事実認識には個体差はあるでしょう。また、戦略実行にあたっては、様々な方が関わりますから、各人の視点によって、同じ事実でも見え方は異なるでしょう。さら
昭和の子どもの世界は非常に危険だった。直接的な危害だけでも、私の記憶の中には「あれは本当に危なかった」というのがいくつかある。たとえば、当時、宅地化が進みつつあった私の家の近所には、(子どもの目からみて)広大なジャンクヤードがあった。廃物の家財道具や電化製品、廃車に至るまでのありとあらゆるガラクタ類がうず高く積み上げて放置してあったのである。もちろんまったく放置されていたわけではなく、そこに廃品を持ち込む業者や、そこから廃品を運び出していく業者が出入りしていた。けれど、常駐の管理人などはおらず、周囲との境界も曖昧で、子どもたちが勝手に出入りする遊び場となっていた。そしてひどく危険な場所であった。たとえば、当時の冷蔵庫は外側からノブを引かなければ開かない構造になっていたのだが、その冷蔵庫の中に子どもが隠れるぐらいのスペースはあった。結果として、冷蔵庫内への子どもの閉じ込めによる死亡事故が多発
夏といえばフェス! テクノ紳士&淑女にとってフェスは何と言っても〈WIRE〉か〈METAMORPHOSE(以下:メタモ)〉になるのだろう。しかし貴方は、メタモの前身であり、日本における巨大レイヴの元祖とも言える〈RAINBOW 2000(以下:レインボー)〉を知っているだろうか。現在ではネット上にもキチンとした情報が少ないこのイヴェント、テクノ警察は1~2回目に参戦した数少ない生き証人なのである(自分で言うか)。ということで、今回はレインボー回想録(a.k.a. テクノ中年の戯れ言)です。 〈レインボー〉の1回目は96年8月10日、場所は日本ランドHOWゆうえんち(現:フジヤマリゾートぐりんぱ)で開催された。なぜ開催されたかはいまとなっては不明だが、多分、前年の95年に当時日本テクノ思想の中核であった雑誌=ele-king(現在ウェブにて復活)主催で日本初の巨大イヴェント=〈NATURAL
Twitter最初期の頃に「渋谷なう」とか「帰宅なう」とか言ってる人が沢山いたことを記憶している方も多いと思う。2007年4月頃である。この語尾に「なう」と語尾につけるのは、誰が最初だったのか。 最初に「なう」とつぶやいた人は? ツイッターの歴史を検索してみましたという記事によると、@Topiaさんのようだ。まあ、さっき知ったんだけど、とぴあたんは、私の友達(とぴあたんが私と友達と思っていない場合を除く)なので、その頃をふと思い出した。 Twitterの最初期の頃は、IRCが、私たち(誰)の中で即時性の高い連絡手段だった。まさにTwitterの使い方とだだ被りで、Twitterが出たばかりの頃は、IRCでいいじゃん(笑)とか本気で思ってたりしてたし(まあ結果はご存知のとおり)、いずれにしても私たち界隈は、Twitterがリリースされた頃は、IRCをもりもり使っていた。IRCは、Twitte
ぼくは大昔からインターネットを使っている。 だからインターネットで起こったことはたいてい知っている。 これは誇れることではないかもしれないけど、 最近は「インターネット老人会」なんて呼ばれていて、 少し救われた気分になっている。 誰でも同じ境遇の仲間をみつけるとホッとするものだ。 とりわけ僕が知っているのはWebについてだ。 具体的にはBlogとかWeb日記が好きだった。主に技術的な事柄だ。 Webという言葉はとても広い意味なのでふさわしくないかもしれないが、 ぼくはWebという言葉の響きがとても好きなので、使わせてもらう。 ここに書いていることはぼくのとても個人的な文章だから、 何をどう表現しても自由だと思う。 ぼくは2007年4月からTwitterをはじめた。 2007年というとだいぶ昔のことだと世の中の人はいうかもしれない。 でも、ぼくにとって2007年は最近のことな気がする。 だか
先の大戦で日本軍が開発した人間魚雷「回天」の搭乗員が書いたとされ、インターネット上に流布している「18歳の回天特攻隊員の遺書」の作者は実在しないことが11日、回天研究者ら関係者への取材で分かった。元海軍士官の男性(故人)の創作だった疑いが強い。男性は戦後、特攻隊員の遺書の収集に携わっており、研究者はこうした複数の遺書を基に創作した可能性を指摘している。(大森貴弘) 《お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。(中略)お母さん。今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です》 この元回天特攻隊員の遺書とされるものが世に出たのは平成7年。元海軍士官の男性が皇学館大の戦没学徒慰霊祭で講演し、大学が講演録として冊子にまとめた。こ
太平洋戦争では、日本で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられた。米軍が上陸した際、沖縄本島や慶良間諸島では集団自決が行われた。最も自決した人が多かった渡嘉敷島では、村長の号令のもと329人が命を落とした。ただし、手榴弾の不発などによって一命を取り留めた人もいる。あの集団自決の現場では何が起き、どのように生き抜いたのか。75年前を振り返ってもらった。(文・写真:写真家・亀山亮/Yahoo!ニュース 特集編集部) 5月1日から68日間、新型コロナウイルスの新規感染者数ゼロが続いた沖縄。だが、7月に入ると、在日米軍基地を含む県内で感染者が急激に増加。さらなる感染拡大への恐れと自粛の空気が強まりつつある。例年であれば夏休みの観光客で賑わう那覇市内の国際通りも、人通りが減っている。 今年はそんなコロナ禍の影響で、生まれ故郷の島へ帰れなかった人がいた。 「(3月28日の渡嘉敷島の)慰霊祭、毎年行ってたけど、
赤外線で撮影された西明寺本堂内陣の西柱の菩薩立像。太い筆線など随代の描式を伝えているという(安嶋教授提供) 湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)は9日、絵は飛鳥時代(592―710)に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、描式から日本最古級の絵画とみられると発表した。834年とされる同寺の創建前で、創建時期が大きくさかのぼる可能性があるとも指摘した。 【画像】日本最古級の絵が潜んでいた真っ黒にすすけた柱 菩薩立像は、本堂内陣の本尊・薬師如来像前にある西柱と南柱に描かれていた。柱は黒くすすけ、これまで何が描かれているのか分からなかったが、昨年6月、周囲の仏像を移動させ、高さ3~4メートルに描かれた絵を赤外線で撮影することができた。 分析の結果、両柱(直径約45センチ)には、菩薩立像が4体ずつ描かれていた。薬師如
ネットワークレベルでサーバーと通信ができるか確認できる「ping」コマンドは、1983年にUNIXコマンドとして開発されて以来、サーバーの死活監視や通信速度の測定など、あらゆる場所で使われているコマンドです。そんなpingコマンドを開発したマイク・ムース氏は、2000年11月20日にレストランからの帰宅途中、高速道路で玉突き事故に巻き込まれて亡くなっていますが、ムース氏により「ping」コマンド開発秘話が綴られたブログ「The Story of the PING Program」はムース氏の没後20年となる2020年現在も閲覧することができます。 The Story of the PING Program https://ftp.arl.army.mil/~mike/ping.html ムース氏がpingコマンドについて語っているブログはアメリカ陸軍研究所のFTPサーバー「ftp.arl.
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