プロ野球、広島一筋で19年間プレーし、エースとして球団最多の通算213勝をあげた北別府学さんが、16日に亡くなりました。65歳でした。
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プロ野球の広島東洋カープの黄金期にエースとして活躍し、球団初の200勝投手となった野球解説者の北別府学(きたべっぷ・まなぶ)さんが16日、広島市内の病院で死去した。2020年1月、血液がんの一種である成人T細胞白血病(ATL)を公表し、5月に次男の骨髄を移植する手術を受けた。昨年6月には敗血症の発症を明かし、闘病生活を続けていた。65歳。鹿児島県出身。 <関連記事>北別府学さん、写真で振り返る栄光の野球人生 <関連記事>カープが生んだ200勝投手、北別府学さんの足跡~中国新聞の記事から 宮崎・都城農高からドラフト1位で1976年に入団。「精密機械」と評された制球力と投球術で、78年から11年連続で2桁勝利をマークし、投手王国をけん引。5度のリーグ優勝と3度の日本一を支えた。 79年はチーム最多の17勝をマークし、球団初の日本一に貢献。82年は自己最多の20勝を挙げ、沢村賞と最多勝に輝いた。
プロ野球・広島東洋カープで活躍し、病気療養中だった北別府学氏が16日、広島市内の病院で亡くなったことがわかった。65歳だった。 【写真】北別府学氏亡くなる 65歳 広島カープ 黄金時代支える 生え抜きチーム最多 通算213勝 北別府さんは宮崎県立都城農業高校から1975年ドラフト1位で広島東洋カープに入団。1977年から先発ローテーションに入り、78年には初めて2桁10勝を挙げた。79年に17勝、80年には12勝をマークし古葉竹識監督の元、広島のリーグ連覇に貢献。82年には20勝し最多勝と沢村賞を獲得した。リーグ優勝した84年にも13勝を挙げ、86年に最多勝、最優秀防御率、最高勝率、MVP、沢村賞に輝きリーグ優勝の原動力となった。 78年から88年まで11年連続で2桁勝利を続け91年にも11勝をマークし山本浩二監督の元でリーグ優勝、現役時代に広島の5度のリーグ優勝の大黒柱として活躍した。
広島で通算213勝を挙げ、球団初の名球会投手となった北別府学(きたべっぷ・まなぶ)さんが16日午後0時33分、広島市内の病院で亡くなった。65歳だった。通夜、告別式は未定。 北別府さんは1957年(昭32)7月12日、鹿児島県生まれ。都城農から75年ドラフト1位で広島に入団した。「精密機械」と評された抜群の制球力を武器に、入団3年目の78年から11年連続2桁勝利をマーク。86年MVP、沢村賞2度、最多勝2度など多くのタイトルを獲得した。92年7月16日中日戦で球団史上初の200勝を達成。20世紀最後の200勝到達となった。94年に現役を引退。通算515試合、213勝141敗5セーブ、防御率3・67。 現役引退後はプロ野球評論家を経て、01~04年までは広島投手コーチを務めた。05年以降は再び評論家活動をしながら、10年から沢村賞の選考委員を務めた。12年に野球殿堂入りした。 20年1月20
北別府の訃報を知ったのは、病院の待合室だった。会社近くの整形外科で、対コロナウイルスワクチンを打ったあとの待機時間中だった。病院の待合室で携帯端末を見るのはいいことか悪いことかいまいちわかっていないが、その病院ではみながみな携帯を見ていたので、おれもそうした。そこで、知ったのだ。 北別府は、子供のころのおれのヒーローだった。カープの、じゃなく、野球の大エースだった。関東で、まわりにカープファンなんてまったくいないなかで、「カープには北別府がいるんだぞ」という気持ちでいた。山本浩二も衣笠祥雄ももちろんいたけれど。大野豊だって特別な投手だ。でも、北別府は別格だった。大きな誇りのようなものだった。 人柄というと、現役時代はかなり「孤高のエース」だったそうだ。追悼記事やなにか、そんな話が色々出てくる。金石が安仁屋宗八に聞いたところによると、ピンチになってマウンドに行って交代するかとなったとき、「次
狙ったところに百発百中―。かつて、まるで漫画のようなピッチングを見せた男がいた。柔よく剛を制し、強打者たちをきりきり舞いさせた「北別府学」の投球術を振り返る。(篠塚和典氏、達川光男氏、駒沢悟氏による鼎談) 「ミリ単位」の投げ分け 達川 先日、現役選手で最高の制球力を持つと言われる吉見一起(中日)が引退を表明して話題になりましたが、彼のような投手を見ていると、北別府学のことを思い出さずにはいられません。 篠塚 僕とドラフト同期で'76年に広島入りした北別府は、ストレートの球速は140kmに届くかどうかだったと思いますが、針の穴を通すようなコントロールを武器に通算213勝を挙げた。 ゆったりとしたフォームから放たれるボールでストライクゾーンの四隅を突く。「精密機械」という二つ名は、彼の投球を体現していました。
プロ野球の広島でエースとして活躍し、5度のリーグ制覇に貢献した北別府学(きたべっぷ・まなぶ)さんが16日、死去したと解説者を務めていた広島ホームテレビが発表した。65歳。鹿児島県出身。 令和2年1月に成人T細胞白血病(ATL)を患っていることを公表。末梢(まっしょう)血幹細胞移植を受けて同7月に退院したが、昨年6月28日、妻の広美さんが感染症に起因する敗血症を発症したことをブログで明らかにしていた。 宮崎・都城農高からドラフト1位で昭和51年に広島入団。抜群のコントロールを武器に先発投手として広島の黄金時代を支えた。57年には20勝を挙げ、最多勝と沢村賞を獲得。61年は最多勝と最優秀防御率、最高勝率に輝いてセ・リーグ最優秀選手(MVP)と沢村賞に選ばれた。
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