鎌倉時代の歌人・藤原定家が1221(承久3)年に記した古今和歌集の注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」の原本2冊が、子孫に当たる冷泉家の時雨亭文庫(京都市上京区)で見つかった。同文庫が18日、発表した。これを基にした鎌倉中期と考えられる写本が、国の重要文化財に指定されている。調査に携わった専門家は「和歌研究史における重要資料の原本。『国宝級』の発見だ」と評価している。
タグ検索の該当結果が少ないため、タイトル検索結果を表示しています。
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
鎌倉時代を代表する歌人、藤原定家が古今和歌集の歌の解釈を記した書物「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」の原本が京都で発見され、調査した専門家は「国宝級の発見で定家と古今和歌集の研究を進めるための貴重な資料になる」としています。 新たに見つかったのは、藤原定家が古今和歌集の歌の解釈を記した注釈書で、鎌倉時代に書かれた「顕注密勘」の上、中、下の3冊です。 定家の子孫にあたる京都市上京区の冷泉家(れいぜいけ)で行われた調査で見つかり、このうち「上」は複製された写本ですが、ほかの2冊は自筆の原本です。 定家様(ていかよう)と呼ばれる独特の書体で書かれ、「八座沈老(はちざちんろう)」という定家の署名も記されています。 「顕注密勘」は古今和歌集の歌について平安時代末期の学僧が記した注釈に定家がみずからの考えを付け加える形で構成されていて、見つかった原本には余白が足りず紙を貼り付けて書き足している部分もあ
百人一首第94番目の歌の作者は参議雅経さんぎまさつね(藤原雅経)です。 後鳥羽上皇に重用され、藤原定家らとともに「新古今和歌集」の選者の一人でもありました。 今回は参議雅経について紹介します。 参議雅経とは 生年1170年、没年1221年。 官位は従三位、参議でした。 藤原雅経の父、藤原頼経が源義経と親しい関係にあり、源義経が追われた後は藤原頼経、雅経親子は鎌倉に護送されることになりました。 しかし雅経は頼朝からその和歌や蹴鞠の才能を認められ、源実朝とも親交を結ぶなどしたため、次第に頼朝からも重んじられるようになりました。 この藤原雅経は、後鳥羽上皇からも重用されます。 院における歌壇で活躍し、また蹴鞠の実力も高く評価されました。 後鳥羽上皇からは「蹴鞠長者」の称号を与えられています。 このことから、藤原雅経は飛鳥井流蹴鞠の祖とされています。 時代背景 サッカー選手の信仰を集める京都白峯神
大河ドラマ「光る君へ」。満月に見守られた廃邸で繰り広げられたどこまでも美しいラブシーン。弦楽合奏を中心に奏でられる2人の愛のテーマも、もうおなじみでしょう。思わず涙した方も多いかと。とはいえ、まひろの涙が象徴するように「恋の成就」の喜びとは言えない、複雑な余韻を残す場面でもありました。互いに激しく求めつつ、すれ違ってもいくまひろと道長。切ない情景でした。(写真は注記のあるもの以外NHK提供) 歌に込めるものは「心」なのか「志」なのか 2人の思いの微妙な違いが和歌と漢詩のやり取りに象徴されていました。道長が送ったものは3つ。いずれも最古の勅撰和歌集である「古今和歌集」からの引用です。最初の歌は「巻第十一 恋歌一」から。次の2つは「巻第十二 恋歌二」から。五つの巻からなる恋歌のパートの最初のシリーズで、いずれも恋の始まりを現す歌を集めています。
鎌倉時代を代表する歌人、藤原定家が古今和歌集についての解釈を書き込んだ注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」の自筆の原本が京都で発見され、調査した専門家は国宝級の発見で、定家と古今和歌集の研究が進む重大な資料になるとしています。 「顕注密勘」は、鎌倉時代を代表する歌人、藤原定家が平安時代の古今和歌集の解釈を記した注釈書で、いくつもの写本の存在は知られていましたが、原本となる自筆の存在は知られていませんでした。 今回発見された「顕注密勘」は上、中、下の3冊で、定家であることを示す「八座沈老(はちざちんろう)」という署名が読み取れますが、1冊は貸し出した先で火事で失われ、改めて写したことが記されていて、定家の自筆は2冊だということです。 内容は、古今和歌集の歌について、平安時代末期の学僧が記した注釈を写させ、そこに定家がみずからの考えを付け加える形で構成されていて、定家様(ていかよう)と呼ば
藤原定家の自筆本見つかる 古今和歌集注釈、冷泉家から―京都 時事通信 社会部2024年04月18日18時10分配信 冷泉家で見つかった藤原定家の自筆による古今和歌集注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」。右上は写本=16日、京都市上京区 鎌倉時代初期の歌人、藤原定家(1162~1241年)の自筆による古今和歌集の注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」が見つかったと、公益財団法人「冷泉家時雨亭文庫」(京都市)が18日、発表した。 ミケランジェロ直筆紙片に3100万円 ニューヨークの競売で 顕注密勘は、平安時代末期の僧、顕昭による古今和歌集の注釈に対し、定家が自説の注釈を加えた書物。写本は確認されていたが、自筆本の発見は初めて。久保田淳東京大名誉教授(中世文学)は「写本では分からない定家の思考を知ることができる貴重な史料だ」と話している。 自筆本は、古今和歌集の解釈を伝える「古今伝授(こき
百人一首第29番目の歌の作者は凡河内躬恒おおしこうちのみつねです。 36歌仙の一人であり、古今和歌集の選者でもありました。 今回は凡河内躬恒について紹介します。 凡河内躬恒とは 生年859年は、没年が925年といわれています。 甲斐、丹波、和泉、淡路などの地方官を歴任しました。官位は五位。 宇多天皇から醍醐天皇の時代になります。 凡河内躬恒は紀貫之らとともに、古今和歌集の選者の一人になりました。 また自身の歌も古今和歌集に58首、それ以降の勅撰和歌集にも多くの歌が選ばれ、その和歌の才能が高く評価された人でした。 歌人としては京で実力が認められていましたが、役職は地方官。 地方官の職務を終えて帰郷したほぼ直後の925年に亡くなりました。 時代背景 凡河内躬恒の亡くなった後には、平将門の乱(935年)、藤原純友の乱(939年)が起こりました。 時代が大きく動く、その前夜といえる時期です。 宇多
吉井秀夫 文学研究科教授、吉川真司 同教授、金光桂子 同教授、千葉豊 同准教授、笹川尚紀 同助教の研究グループは、文学研究科附属文化遺産学・人文知連携センター京大文化遺産調査活用部門が所蔵する12世紀はじめごろの墨書土器を赤外線機器などを用いて再検討した結果、内面の墨書は、最初の勅撰集である「古今和歌集」に収録されている一首に該当する可能性が高いということを明らかにしました。 墨書土器は、医学部附属病院東構内南東辺(聖護院川原町遺跡)の発掘調査によって出土したものであり、口径約9㎝の土師器小皿で、内外面に墨書が認められます。 今回の発見は、平安時代後期の和歌文化の様相について考えるうえで、重要な素材を提供したといえます。本研究グループは、今後、この和歌墨書土器が出土した遺跡の性格や和歌が土師器にしたためられた理由などに関して、国文学・考古学・日本史学といった各方面から、多角的に分析を進めて
昼下がりのカフェテラス。左斜め前には川又さん、右斜め前にはさやか。川又さんはホットコーヒーを、さやかはアイスコーヒーを飲んでいる。 川又さんは喫茶店の娘らしくホットコーヒーをじっくりと味わっている。 そんな姿を見て、さやかはアイスコーヒーのストローを右手の指でつまみながら、 「吟味してるんだね、川又さん」 ぴくっ、と反応した川又さんはコーヒーカップを置き、 「すみません、青島センパイ。吟味し過ぎて、自分だけの世界に入り込んでしまってました」 「いいんだよ」 さやかはそう優しく言い、川又さんに微笑みかける。 どきっ、としたみたいな川又さんの表情。 いい感じ。 いい感じ、というのは、 『川又さんとさやかの距離を近付けたい』 という目論見がわたしにあったのである。 2人がお近付きになったら、面白い。 「さやか、さやか」 「なにかな、愛。はしゃいでるみたいな勢いでわたしの名前を呼んで」 「昔話なん
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く