那覇市にある「世界遺産」の首里城跡に復元された首里城で起きた大規模な火災では、「正殿」など主要な建物が全焼し、琉球王国時代から伝わる貴重な収蔵品の多くが焼けたものとみられています。警察などは、あす(1日)午前から現場で検証を行うなどして詳しい出火原因を調べることにしています。 31日未明から那覇市にある首里城で11時間にわたって続いた大規模な火災では、城の主要な建物の「正殿」や「北殿」、それに「南殿」などが全焼しました。
田村淳さんが文化放送の番組で「松本城のお堀の水が汚い」と発言したことを受けて、城塞考古学者の千田嘉博先生が反論したお話 千田嘉博_城郭考古学 @yoshi_nara 田村淳さん、誤解しています。湧水を水源にした松本城の水堀は透明度が高く、堀底の土が見えているのです。汚くありません。さらに石垣の基礎に胴木を用いた松本城の堀の水を安易に抜いてはいけません。「田村淳、松本城のお堀が汚すぎて『池の水ぜんぶ抜く』に企画を提案」 jtame.jp/jtame/119382/ 2023-11-26 10:09:36 田村淳 @atsushiTSK はじめまして田村淳と申します。 考古学者の千田さんからSNSを通じて名指しでのご教授痛み入ります。石垣の基礎に胴木を用いてる為、お堀の水をなかなか抜くことが難しいと…大変勉強になりました。ありがとうございます。そしてお堀の水は湧水を使用してるから綺麗であると…
1984年生まれ岡山のど田舎在住。技術的な事を探求するのが趣味。お皿を作って売っていたりもする。思い付いた事はやってみないと気がすまない性格。(動画インタビュー) 前の記事:昭和のパフェが食べたいんだ! > 個人サイト オカモトラボ ラジオ塔=電波を出す塔ではなく、街頭ラジオ 以前、岡山の街歩きの会に参加させてもらった時のことだ。「ラジオ塔」を研究されている方にお会いした。 ラジオ塔…って何?ラジオの電波を出す塔の事?と思ったが違った。 「街頭ラジオ」の事だそうだ。 街頭テレビなら知っているが、街頭ラジオ?…そしてその痕跡はまだ日本各地に残っているらしい。全然知らないぞ。知らない事を知るのは楽しいので、ラジオ塔についてお話をうかがう事にした。 住宅街の中にあるごく普通の公園、岡山市の上伊福西公園。 待ち合わせしたのは、岡山県岡山市の中心部から15分ほど歩いたところにある上伊福西公園だ。 …
","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"
ヴィズマーラ恵子🇮🇹 @vismoglie ✍️ニューズウィーク日本版WorldVoice【イタリア事情斜め読み】ブロガー・コラムニスト 🎙文化放送【おはよう寺ちゃん】コメンテーター JAPANESETEASTORE.com 日本茶舗代表取締役MATCHA STORE® 🏎スーパーカー並行輸出コンサル会社経営🇯🇵⇄🇮🇹 逐次通訳・翻訳 newsweekjapan.jp/worldvoice/vis… ヴィズマーラ恵子🇮🇹 @vismoglie ポンペイ遺跡考古学者の通訳ガイドをする時「亡くなった人の服が焼けてないのはなぜですか?」という質問が一番多かった。400度の熱風を吸い込めば人は即死する。骨の中にコラーゲンが残っていたので人々を襲った高温は400度未満だと判明。コラーゲンは500度以上でゼリー状のゼラチンに変化するからね 2020-12-28 06:25:04
2023年2月4日に開催された「南池袋遺跡」の見学会に行ってきました! 到着したら、かなりの行列。 都会のど真ん中で発見された遺跡は注目度も高いですね。 地図ではここ↓ 豊島区南池袋2-40付近。 豊島区役所が近いです。 遺跡が発見されたのは南池袋二丁目C地区再開発南街区。 2021年8月から発掘調査が行われており、現在も調査は続けられています。 受付で資料もいただけました。 南池袋遺跡について詳細に説明されています。 発掘調査では、縄文時代や江戸時代〜昭和時代の生活の跡が見つかっていますが、特に重要な発見として、日本の写真産業の始まりとなった「東洋乾板株式会社」の工場の建物跡があげられます。 オフィス街や繁華街としてにぎわう現在の池袋から想像することは難しいですが、豊島区内には明治時代以降さまざまな工場がありました。 雑司が谷地域の歴史や産業を語るうえで東洋乾板の工場は重要な施設だといえ
記録的な暑さとなっている中国では、猛暑と干ばつにより水位が低下した川で、およそ600年前に制作されたとみられる3体の仏像が現れ、話題になっています。 ロイター通信によりますと、仏像が見つかったのは、中国内陸部 重慶を流れる長江の岩礁で、通常は水の底に沈んでいる場所だということです。 水位の低下によって、横に並んだ3体の像が現れ、このうち真ん中の1体は、座っているように見えます。 ロイター通信は、中国の報道を引用する形で「およそ600年前に制作されたものだとみられる」と伝えています。 仏像を見に来た男性は「水位が元に戻ったらもう見られないと思うので、見に来ました。私たちの先祖が残してくれた文化財です」と話していました。
ある日のことである。編集部の安藤さんから「第二海堡(かいほう)の上陸ツアーを取材するんですが一緒に行きませんか?」という連絡があった。 えっ、嘘っ、第二海堡に上陸できるの?! 私は二つ返事で「行きます!」と答え、まるで遠足を待つ子供のように、うきうき気分で当日を迎えたのであった。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前の記事:バイクのミラー越しに夜の景色を見るとエモい > 個人サイト 閑古鳥旅行社 Twitter 明治時代に築かれた、東京湾の入口を守る人工島 「第二海堡」と言われても馴染みのない方が多いと思うが、これは東京
1872(明治5)年の鉄道開業時、線路を敷くため東京湾の浅瀬に築かれた「高輪築堤」(東京都港区)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス、本部パリ)は、国際的にも非常に重要な遺産だとして、調査に伴う解体をやめるよう求める「ヘリテージアラート」を出し、JR東日本の深沢祐二社長らに宛てて文書を送付した。(梅野光春) イコモスは、世界文化遺産の登録審査を行う機関。高輪築堤を「日本の近代化の出発点であり、日本と(建設指導に当たった)英国の技術を合わせた構造物が、非常に良い状態で残っている」と評価。アラートでは、遺構の重要性を広く知らせないまま解体・再開発を進めることは、国や都の文化財保護行政上、深刻な懸念材料で、あしき前例を残すとしている。
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東京都千代田区一番町の英国大使館跡地から弥生時代の集落跡が見つかったことが千代田区への取材で分かった。見つかったのは三菱地所レジデンス(東京都)などが再開発を進めている土地で、縄文時代のものも含めこれまでに竪穴住居跡が28棟確認された。ただ、遺跡として現地に残すことは難しい見込みで、調査後に埋め戻されてマンション建設が始まる予定。現地説明会も開かれない。都心における遺跡活用の難しさを改めて浮き彫りにした。 千代田区などによると、10月下旬までにこの土地で見つかった弥生時代後期前半(1~2世紀)の竪穴住居跡は21棟。縄文時代のものも3棟あり、そのうち1棟には貝が残っていた。時期が不明の竪穴住居跡も4棟あった。弥生土器や縄文土器も出土し、近世の上水木樋(もくひ)や井戸、地下室なども確認された。 調査は2024年3月まで行われる。調査対象となった約7700平方メートルのうち、まだ約3700平方メ
戦国武将・織田信長の最愛の女性で、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓がある久昌寺(きゅうしょうじ)(愛知県江南市田代町)が近く取り壊されることが分かった。老朽化に伴い維持管理が難しくなったためで、跡地は市に売却され、公園として整備される見込み。市民や歴史ファンらからは「貴重な歴史遺産を残してほしかった」と惜しむ声が上がるが、630年以上とされる歴史に幕を下ろすことになる。【川瀬慎一朗】 「江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。寺は1384年創立で生駒家の菩提(ぼだい)寺にあたる。吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となった。長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。信長は正室、濃姫との間に子どもがおらず、吉乃は織田家の中で存在感があったとみられる。若くして亡くなったとされ、冷
大型量販店の建設予定地から珍しい遺構が見つかった。ところが、遺跡発掘調査を担った自治体側は開発スケジュールを優先し、一般向けの現地説明会を開かず、遺構を埋め戻した。専門家から「市民への公開が望ましいケースだった」と指摘する声が上がっている。 金丸・南アルプス市長「市の命運をかけた事業」 珍しい遺構が見つかったのは、山梨県南アルプス市でコストコの建設が予定される市有地。市は昨年7月、コストコの運営会社と協定を締結し、2024年度中の開業に向けて造成工事を進めている。コストコの進出は県内初。一帯の開発について、金丸一元市長は「市の命運をかけた事業」と位置づける。 市教委は昨年10月、建設予定地6ヘクタールのうち3・5ヘクタールで発掘調査を開始。ここから弥生時代中期から近代にわたる約2千年間の遺構や遺物が連綿と発見された。南東部からは、平安時代から鎌倉・室町時代にかけてのものと見られる二重の区画
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宮内庁と堺市は27日、世界文化遺産「百舌鳥(もず)・古市古墳群」の一つ、仁徳天皇陵古墳(大山(だいせん)古墳、堺市堺区)の発掘調査を10月から始めると発表した。発掘調査は古墳の保全を目的とした調査で、平成30年以来2回目。令和元年7月の世界遺産登録後では初めてとなる。 今回の調査では、前方後円墳の墳丘を二重に取り囲む堤のうち、内側の第1堤の3カ所を発掘し、遺構や遺物の残存状況を確かめる。調査期間は10月5日から12月上旬。今後の護岸工事など保全整備のための資料収集が狙いとなる。 ■ 墳丘は少しずつ削られている 平成30年10~12月に行われた前回の調査では、第1堤の南側から東側の墳丘前方部に近い範囲で発掘し、1列に並んだ円筒埴輪(はにわ)、石敷きを確認した。今回は調査範囲を広げ、後円部に近い東側から北側を対象とした。 仁徳天皇陵古墳は、墳丘長が486メートルある国内最大の前方後円墳。5世紀
「掩体壕(えんたいごう)」という言葉をご存じだろうか。第二次世界大戦中に築かれた、飛行機を空襲から守るための格納庫である。 関東地方では東京都の調布飛行場や千葉県の香取飛行場跡、茂原飛行場跡などに現存しており、私は以前それらの掩体壕を巡る記事を書いた(参照記事→「飛行機用の防空壕、「掩体壕」のたたずまい」)。 掩体壕は関東地方のみならず全国各地の飛行場に築かれており、中でも高知空港の近くには計7基の掩体壕が残っているという。それらは現在どのような状態なのか、気になったので見に行った。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前
任天堂の資料館建設に先立ち発掘調査があった京都府宇治市小倉町神楽田(かぐらでん)の工場敷地内で、弥生時代後期(3世紀前半)の集落の遺構が見つかった。同市教委が5日、発表した。 現地は同社宇治小倉工場で、近鉄京都線小倉駅の東側。一帯は昭和の干拓で農地になる前の巨椋(おぐら)池の東岸にある「神楽田遺跡」。市教委が2月から、敷地内の2カ所で、深さ約1メートル、計308平方メートルを調べた。 遺構には、状態の良い弥生土器のかめ(高さ22センチ、幅19センチ)がまとまって埋まっていた。煮炊きに使ったとみられ、下の方にすすが残っていた。大きな破片の上に小さな破片を重ねた状況で、「乱雑に捨てたのではなく、何らかの祭祀(さいし)的な意図」が考えられるという。 さらに時期不明の竪穴建物と土師器(はじき)の皿(直径10・5センチ、平安末期~鎌倉時代初め)も見つかった。市歴史まちづくり推進課の浅田洋輔さんは「弥
神奈川県の中央部を流れる相模川。その下流域にあたる茅ヶ崎市には、「旧相模川橋脚」という史跡が存在する。 人知れず水田の地下に眠っていた鎌倉時代の橋脚が、ちょうど100年前の大正12年(1923年)に発生した関東大震災の液状化現象によって地上に現れた、全国的にも貴重で珍しい遺構である。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前の記事:範囲図の境界を攻める(デジタルリマスター) > 個人サイト 閑古鳥旅行社 Twitter 相模川に架けられた鎌倉時代の橋 「旧相模川橋脚」が存在するのは、旧東海道を踏襲する国道一号線のすぐ側だ。東
戦国時代に明智光秀が築いた坂本城跡(大津市)で見つかった全長約30メートルの石垣と外堀跡について、佐藤健司市長は20日開会の2月市議会通常会議で、城跡で当初予定された宅地造成工事を中止し、保存する方向で事業者と大筋合意に至ったと明らかにした。市は今後、城跡の国史跡指定を目指す。 文化庁によると、工事をやめて保存に取り組むのは珍しいという。 佐藤市長は、市議会通常会議で「本市から事業者に対して、工事計画の中止を要請しておりましたが、このほど開発許可の廃止を届け出ることについて大筋での合意に至った」と報告。事業者の三王不動産流通(同市)には「心から感謝申し上げる」と述べた。 城跡では、宅地造成工事に伴い市が昨年10月から約900平方メートルを発掘調査。地上に痕跡が残らず、これまで「幻の城」と呼ばれてきた坂本城の三の丸外堀と推定される石垣などが出土した。 今月10、11日の現地説明会には全国から
旧志免鉱業所竪坑櫓について知ったのは2005年、ワンダーJAPANの創刊号の表紙から。 冊子は出てすぐ購入したのだが、威圧感たっぷりの表紙だけで十分元をとった気になって、あまり読まずに本棚にしまいつつ、志免炭鉱跡にいつか行きたいとの思いを持ちつづけていた。炭鉱跡が福岡にあるところまでは確認していた。社会や道徳で筑豊炭田について習っていたので、やはり炭鉱というのものは九州北部にあるものなのだという認識を持ったのだが、表紙の写真の印象から、てっきり福岡と熊本の県境の山奥にあるのかなと思っていた。「空が赤くなっているようなところだから遠いところに違いない」という単純なイメージを持っていたのである。山奥の獣道を数時間歩いて、忽然と目の前に現れた平原と、崩壊寸前の櫓。見に行くとしたらそれなりの規模の旅になると思っており、その準備は今はまだできない……と思いながら18年が過ぎたのだが、先日、博多に用事
木造復元に向けて入場禁止となる日を前に、大勢の「駆け込み来場者」でにぎわった名古屋城天守閣=名古屋市中区で2018年5月5日午後2時23分、兵藤公治撮影 「テーマパークにする気はない」 名古屋市の河村たかし市長が肝いりで進めている名古屋城天守閣の木造復元事業。市はバリアフリー対策として車いす使用者が乗れる小型昇降機を設置する方針を打ち出している。どの階まで昇れるかが焦点となる中、河村市長は毎日新聞の取材に「名古屋城は文化財。テーマパークにする気はない」と述べ、障害者団体が要望する最上階までの設置を明確に否定した。 名古屋城天守閣は5層の屋根を有する「5層5階地下1階」の建造物。市は「地上から天守1階まで」を最低条件として小型昇降機を設置し、市民の意見を聞きながら、さらに上層階まで昇れるかどうか検討を進めている。 名古屋城天守閣の木造復元に関し、河村市長は取材に「文化財の国宝を目指す」と強調
私が中学生の頃、「あれはなんだろう」と思っていたものがある。畑の中に点々と置かれている、U字型のコンクリートブロックだ。 当時はその不思議な形状に惹かれながらも用途が分からず、イースター島のモアイ像のような、なんとも謎めいた存在に感じられたものだ。 大人になった今、改めて調べてみると、それは完成後わずか6年しか使用されなかった幻の水路の遺構であった。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前の記事:「横浜三塔」を一度に見られる場所は三箇所だけというのは本当なのか? > 個人サイト 閑古鳥旅行社 Twitter 通学路から眺め
京都府八幡市橋本地区で、遊郭にまつわる石碑の扱いを巡って市民の間で意見が分かれている。遊郭の存在を「負の歴史」ととらえて石碑の撤去を求める住民がいる一方、「貴重な歴史資料」と保存を求める声もあるためだ。一帯の再整備を計画する市は地元自治会の意向を受けて撤去する方針で、生乾きの歴史とどう向き合うのか、市民に波紋を広げている。 石碑は「養神(ようしん)」と大書され、高さは約170センチ。1922(大正11)年に建てられた「旧歌舞練場兼芸娼妓(げいしょうぎ)慰安余興場」の敷地内にあった。歌舞練場は戦後、アパートなどに転用されてきたが、隣接する京阪橋本駅前の整備を八幡市が計画したことに伴って今夏に取り壊された。現在は養神碑だけが残されている。 市は整備にあたって、予定地一帯にある石碑などの扱いについて地元自治会に希望を聞いた。その結果、明治元年の行政区画整備で消えた「橋本」の地名が28(昭和3)年
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変わった生き物や珍妙な風習など、気がついたら絶えてなくなってしまっていそうなものたちを愛す。アルコールより糖分が好き。 前の記事:大根のかつら剥きはたった一日でもそこそこできるようになる > 個人サイト 海底クラブ 水位がここまで下がるのは14年ぶり 琵琶湖の水位が低い状態が続いている。 2021年は秋の台風シーズンにたいして雨が降らず、それ以降も降水量の少ない状態が続いているのが原因だ。 基準水位マイナス70センチよりちょっと上のあたりでふらふらする現在の水位。 水位がここまで低下するのは平成19年以来のじつに14年ぶりなのだそうである。 そんなわけで最近の関西では滋賀県知事が連日のように節水を呼びかけ、「琵琶湖の水止めたろか!」という脅し文句が冗談ではすまなくなってきている。 たいへんだ。 歴史をさかのぼれば平成6年にもマイナス123センチという、琵琶湖の底の栓が抜けてしまったのではと
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神奈川県のほぼ中央に位置する海老名市に、かつて「逆川(さかさがわ)」と呼ばれる川が存在した。現在は埋め立てられているものの、その川筋を跡としてたどることができる。 一見しただけではよくある水路の跡や暗渠のように見えるかもしれないが、実はこの逆川、奈良時代に築かれた古代の運河なのである。 1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー) 前の記事:海抜0mからの富士登山(デジタルリマスター) > 個人サイト 閑古鳥旅行社 Twitter 国分寺を建てるため開削された逆川 私が逆川を知ったきっかけは、海老名駅から東へ続く幹線道路、県道40号
お城といえば、壮麗な天守閣やかっこいい櫓といった建物ばかり注目してしまいがちだが、その建物を支える石垣に注目して見るとどうだろうか? しかし、わたしたち素人がなんの予備知識もなくふらっと石垣を見に行ったとしても、なにがなにやらわからないことは必定。そこで、石垣に詳しい人と一緒に江戸城に行ってみたい。 江戸城とは? 江戸城は、現在、天皇の住まいとなっているため、皇居とも呼ばれるが、江戸時代までは徳川家の居城であり、江戸幕府の本拠地だった。 ふつう、テレビなどのメディアで紹介されるばあい、皇居前広場から伏見櫓をのぞむ下の写真のような風景をさして「江戸城(皇居)二重橋前」とされることが多い。 江戸城(皇居)のイメージ、これですよね しかし、上の写真にうつっている手前の橋は、厳密にいうと『二重橋』ではない。ただしくは『正門石橋』と呼ばれる橋であり、真の『二重橋』はこの位置からだと正門石橋の奥に隠れ
名古屋城の木造復元事業を巡り、名古屋市は7日の市議会2月定例会の本会議で、バリアフリー対策の一環で検討している小型昇降機の設置について、石垣レベルから天守閣(5階建て)の1階部分まで導入する方針を示した。市は2022年度末までに取りまとめる整備基本計画に今回の方針を盛り込み、23年度の早い時期に文化庁に提出する。 渡辺義郎市議(自民)の質問に市側が明らかにした。天守閣の1階までは、公募で選定した小型の垂直昇降機(4人乗り)の技術を採用する。松雄俊憲副市長は、史実に忠実な木造復元に最大限配慮する意向を示し、「1階への昇降は確保したい」と説明。その上で「どうしたらより上層階へのバリアフリー対応が可能か、今後の昇降技術開発の動向を踏まえて、引き続きしっかりと検討していく」と述べた。 一方、障害者団体や日弁連などは大型エレベーターを最上階まで設置することを求めている。市によると、エレベーターのスペ
東海地方で最大規模の前方後円墳「断夫山(だんぷさん)古墳」(名古屋市熱田区)について、名古屋市教育委員会と愛知県教育委員会が、今年度中にも初の発掘調査に乗り出すことになった。 県教委によると、断夫山古墳は5世紀末から6世紀初めに作られたとみられ、全長約150メートル。ヤマトタケル(日本武尊)の妻ミヤズヒメ(宮簀媛)の墓との言い伝えがあるほか、豪族の「尾張連(おわりのむらじ)」の墓という説もある。 江戸期には「だんぶやま」と呼ばれ、亡きヤマトタケルへの思いを抱いてミヤズヒメが没したという伝承から、夫を断つ山という「断夫山」の表記がみられるようになった。 戦前までは熱田神宮が管理。戦後、県営熱田神宮公園ができてから県の管理に移り、1987年に国の史跡に指定されたが、これまで発掘調査はされていなかった。県教委文化財保護室の洲崎和宏室長補佐は「熱田神宮の管理下にあったため、立派な古墳と知られていて
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