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磯崎新の検索結果1 - 40 件 / 67件

  • 国際的建築家、磯崎新さんが死去 ポストモダンのリーダー | 共同通信

    Published 2022/12/30 08:17 (JST) Updated 2022/12/30 10:15 (JST) 米ロサンゼルス現代美術館や茨城県のつくばセンタービルなどの設計で知られる国際的建築家の磯崎新(いそざき・あらた)さんが28日午前10時半、老衰のため那覇市の自宅で死去した。91歳。大分市出身。葬儀は近親者で行う。喪主は長男宙(ひろし)氏。 丹下健三さんに師事し、磯崎新アトリエを設立。大分県立大分図書館、群馬県立近代美術館で日本建築学会賞。ポストモダン建築のリーダー的存在だった。 1996年のベネチア・ビエンナーレ国際建築展では日本館コミッショナーを務め、阪神大震災の廃虚を再現した展示が最高賞の金獅子賞を受けた。2019年にプリツカー賞を受けた。

      国際的建築家、磯崎新さんが死去 ポストモダンのリーダー | 共同通信
    • 欧米人と日本人の考え方の違いと、日本を揺るがした「あの事件」の裏話─「ノエマ」編集長が語る日本 | 加藤周一や磯崎新の分析は当たっている

      ──日本では、数値的・物理的な「事実」や個別の「データ」を重視するあまり、哲学的な概念や立場を重視せず、貶めることさえあります。その傾向は欧米でも見られるのでしょうか。 あるとも言えますが、欧米と日本では文化的な背景が違うのではないかと考えます。 東洋の文化はより実存的な事実から出発するのに対して、西洋の文化は観念から出発します。そのため、日本は、ある種の集団的な実存主義だと言えます。つまり、誰もが相互に結びつきを持っており、みんなが直面する現実に合わせて容易に考えを変えてしまいます。考えを変えても、それは観念的な矛盾にはならず、問題ともみなされないということです。 反対に西洋では、自らの観念的な立ち位置と相容れない個別の選択は「矛盾」になります。たとえば、保守主義者を自称し市場を持ち上げている人が、電気自動車への補助金政策を望むなどということは「矛盾」なわけです。観念が先行し、その観念の

        欧米人と日本人の考え方の違いと、日本を揺るがした「あの事件」の裏話─「ノエマ」編集長が語る日本 | 加藤周一や磯崎新の分析は当たっている
      • 磯崎新が91歳で逝去。建築史に大きな足跡残す

        世界的な建築家としてその名が知られる磯崎新が12月28日、老衰のためこの世を去った。91歳だった。 磯崎は1931年大分県生まれ。54年に東京大学工学部建築学科を卒業し、丹下健三の指導のもとで建築家としてのキャリアをスタートさせた。63年には建築事務所「Arata Isozaki & Associates」を設立し、約60年にわたってアジアやヨーロッパ、北アメリカ、中東、オーストラリアなど、世界各地で100以上の作品を手がけた。 重要作としては、北九州市立美術館(1972〜74、福岡)、水戸芸術館(1986〜90、茨城)、アリアンツタワー(2003〜14、ミラノ)、カタール国立コンベンションセンター(2004〜11、ドーハ)、上海シンフォニーホール(2008〜14、上海)などが挙げられる。 また磯崎は2019年、「建築のノーベル賞」とも言われるプリツカー賞を受賞。丹下健三や槇文彦、安藤忠雄

          磯崎新が91歳で逝去。建築史に大きな足跡残す
        • 建築家 磯崎新さん死去 ポストモダン建築の旗手 国際的に評価 | NHK

          ポストモダン建築の旗手として注目を集め、「建築界のノーベル賞」とも呼ばれるプリツカー賞に選ばれるなど、国際的に高い評価を受けた建築家の磯崎新さんが12月28日、老衰のため、那覇市の自宅で亡くなりました。91歳でした。 磯崎さんは1931年に大分市で生まれ、1954年に東京大学工学部建築学科を卒業して大学院では日本を代表する建築家の丹下健三氏に師事しました。 1963年にアトリエを設立し、初期の代表作となる旧・大分県立大分図書館や北九州市立中央図書館など、地元の九州地方などで次々と建築物を手がけました。 また、1983年に完成した茨城県の「つくばセンタービル」は、画一化された近代建築への批判を込めたポストモダン建築の代表作とされ、国内外からポストモダン建築の旗手として注目されました。 このほか、ロサンゼルス現代美術館やバルセロナオリンピックの屋内競技場など世界各地で作品を手がけ、国際的に高い

            建築家 磯崎新さん死去 ポストモダン建築の旗手 国際的に評価 | NHK
          • 建築界のレジェンド 磯崎 新という謎 - T JAPAN:The New York Times Style Magazine 公式サイト

            中秋の名月の翌9月14日、満月の夜に群馬県渋川市にある「ハラ ミュージアム アーク」に建築関係者ら約200名が集った。今年88歳を迎えた建築家、磯崎 新の米寿を祝うためだ。ハラ ミュージアム アークは東京にある原美術館の別館で、設計は磯崎が手がけた。広大な敷地にはオラファー・エリアソンやアンディ・ウォーホルの作品が点在し、美術館の一角をなす「觀海庵」では『縁起』と題した磯崎の展覧会も前日から始まった。 大型バス3台に分かれて会の参加者が到着する。その中には建築家の妹島和世や青木 淳、石上純也らの顔も見える。日が暮れる前にホンマタカシによる集合写真の撮影が行われ、会が始まる。お祝いのスピーチの先陣を切るのは、磯崎 新アトリエの元所員、渡辺真理(まこと)だ。「磯崎さんの周囲には、常に新しく謎だらけの興味深いプロジェクトが渦巻いていて、見とれているといつの間にか自分も巻き込まれ、大変な困難に直面

              建築界のレジェンド 磯崎 新という謎 - T JAPAN:The New York Times Style Magazine 公式サイト
            • 磯崎新による丹下健三への弔辞

              先生の手がけられた数多くの建築のなかでも、とりわけ気品にあふれ聖なる空間へと昇華したかにみえる、もっとも気に入ったおられたに違いないこの東京カテドラルに、今日は大勢の弟子どもが参集しております。 おわかれに来たのではありません。たった一言でもいい。最後のお言葉を聞きたい。<建築>そのものに化身されていた先生のお言葉がまだ聞けるのではないか、そんな想いでここにいるのです。 お前たち、本当に俺の弟子か、とにが笑いなさっているかも知れませんが、私たちは皆、そのように考えております。あるものは直接手をとって教えていただきました。あるものには鋭く行く先を示されました。あるものは、はるかにお仕事ぶりを拝見して、先達と心に決めてまいりました。

              • 磯崎新さんが死去 ポストモダン建築をリード、国際的に活躍 | 毎日新聞

                茨城・つくばセンタービルや米ロサンゼルス現代美術館などで知られ、ポストモダン建築をリードして国際的に活躍した建築家、磯崎新(いそざき・あらた)さんが28日、老衰のため死去した。91歳。葬儀は近親者で営む。喪主は長男宙(ひろし)さん。 大分市出身。東京大建築学科に入学、故丹下健三さんに師事し、故黒川紀章さんらとともに丹下研究室に在籍した。在籍中に、地元大分の政財界からの依頼で「旧大分県立大分図書館」(1966年、国の登録有形文化財)を設計、前後してアトリエを構え独立した。 70年の大阪万博では丹下さんのもとサブプロデューサーとして「お祭り広場」などの構想、設計にかかわった。代表作は幾何学的な図柄や異素材を組み合わせ、ポストモダン建築と評されることの多い「つくばセンタービル」(茨城県つくば市・83年)や「水戸芸術館」(90年)、巨大な楕円(だえん)体の「なら100年会館」(奈良市・98年)など

                  磯崎新さんが死去 ポストモダン建築をリード、国際的に活躍 | 毎日新聞
                • 占拠されたトリエンナーレ、都市デザイナー・磯崎新が直面した“運動の喪失”

                  1962年8月25日。当時、磯崎新が住んでいた東京都文京区駕籠(かご)町の家に、何十人もの人々が詰めかけた。20代の美術家の吉村益信、篠原有司男らに加えて、丹下健三(建築家)、伊藤ていじ(建築史家)、岡本太郎(美術家)、瀧口修造(美術評論家)、土方巽(舞踊家)、一柳慧(作曲家)といった、そうそうたる顔ぶれがそろった。 まもなく渡米する吉村の壮行会というのが一応の趣旨だったが、建築と様々な芸術分野との衝突を期待する思惑もあっただろう。案内状には「Something Happens」と書かれていた。その期待に応えてか、吉村は血が出るまで歯を磨くパフォーマンスを披露し、土方と篠原は磯崎邸の屋根に上って裸踊りを繰り広げた。閑静な住宅街にパトカーで警官が駆けつける。翌朝、責任者として警察署に出頭したのは磯崎だった。 吉村や篠原といった若い美術家たちと、磯崎の関係は深かった。吉村は磯崎の高校の後輩で、

                    占拠されたトリエンナーレ、都市デザイナー・磯崎新が直面した“運動の喪失”
                  • 追悼 磯崎新

                    磯崎新は追悼文の名人であった。『挽歌集』(白水社、2014年)と題して追悼文だけをまとめた本さえ遺した。紋切り型に流されず、ごく個人的な亡き人との思い出を語るようでいて、読むにつれたしかにそうであったと思いを致すことになる、そんなテクストがそこに並ぶ。だからなおさら磯崎新の死を受けて、これを書く荷は重い。 ことは単に文章がうまいへたの問題ではない。文字通り、同志を送る言葉を骨身を削って綴っていた。磯崎が体調を崩したきっかけの、すくなくともひとつは荒川修作の追悼文だったように思う。荒川が芸術の枠に収まりきらないプロジェクトに賭け、しかし思うように理解を得られないことも多い、その孤独への哀悼がテクストに刻まれている。もちろんその心労だけではなかったろうが、書き上げた後しばらく伏せって、持ち直しはしたが、なかなか本調子とはいかなかったのではないか。 その頃から磯崎は、もう自分にできることは「翁の

                      追悼 磯崎新
                    • 磯崎新さんの原点は大分に 出世作「旧大分県立大分図書館」は現役:朝日新聞デジタル

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                        磯崎新さんの原点は大分に 出世作「旧大分県立大分図書館」は現役:朝日新聞デジタル
                      • 磯崎新さん死去、91歳 ポストモダン建築を牽引、東京五輪の新国立競技場建て替えで計画撤回訴え:東京新聞 TOKYO Web

                        ポストモダン建築の世界的な牽引(けんいん)者で、つくばセンタービル、水戸芸術館などを手がけた建築家の磯崎新(いそざき・あらた)さんが28日午前10時30分、老衰のため那覇市の自宅で死去した。91歳。大分市出身。葬儀は来年1月4日、沖縄県浦添市伊奈武瀬1の7の1、いなんせ会館で。近親者のみで行うが、午後4時から一般焼香を受け付ける。喪主は長男宙(ひろし)さん。 合理性や機能性を追求したモダニズム(近代主義)建築が都市景観を貧しくさせたとの反省から、装飾性や土着性を持たせるポストモダン建築に取り組み、多彩な言論を展開した。

                          磯崎新さん死去、91歳 ポストモダン建築を牽引、東京五輪の新国立競技場建て替えで計画撤回訴え:東京新聞 TOKYO Web
                        • 磯崎新のウフィッツィ美術館の出口プロジェクトいよいよ

                          「入り口に比べて、え?ここが出口?」というような殺風景で分かりづらい裏通りにあるウフィッツィ美術館の出口。 1998年にその出口の新建設のために国際デザインコンペティションが開かれ、日本人建築家である磯崎新(いそざき あらた)氏によるデザインがコンペで選ばれた。 それから、21年以上の月日が経っている。 2020年8月9日(日)21年間にわたる論争の後、ようやくイタリア文化遺産省によってフィレンツェのウフィッツィ美術館の出口の新建設Mibactの「大文化遺産プロジェクト」計画の決定が発表された。 文化遺産大臣ダリオフランチェスキーニが立ち上げた「大文化遺産プロジェクト」には11のプロジェクがあり、戦略計画の103,630,501ユーロで資金提供されている。この度、ウフィツィの磯崎ロッジアとサンタマリアノヴェッラのイタリア語博物館の建設についてGOサインが出たというわけだ。磯崎ロッジアの建設

                            磯崎新のウフィッツィ美術館の出口プロジェクトいよいよ
                          • 磯崎新さんを悼む 内藤廣 時代を創った建築家:東京新聞 TOKYO Web

                            磯崎さんの訃報に接し、時代の歯車が軋(きし)み音を立ててまた一つ刻みを進めたような気がしています。 若い頃は、美しく精緻な文章とその裏に見え隠れする周到な戦略に、たいそう反発しました。はじめから、出口はどこにもないのだ、と言われている気がしたからです。それから30年以上の年月が過ぎ、2006年に「時代を作った本」という連載企画の冒頭で著書『空間へ』を取り上げることになり、インタビューを受けていただきました。まさしく『空間へ』は、1960年代と70年代を画す新しい建築像の到来を予感させる本でした。ご当人は、エッセイを束ねただけ、と笑っていました。 東京オリンピック、アメリカ庇護(ひご)下の高度経済成長、沖縄返還、学生運動、巷(ちまた)に流れる熱い気分に、冷や水を浴びせかけたのがこの本でした。厭世(えんせい)的なニヒリズム、独特の終末観、斜に構えた目線、意味の脱構築、どれもそれまでの建築界には

                              磯崎新さんを悼む 内藤廣 時代を創った建築家:東京新聞 TOKYO Web
                            • 安部公房の『第四間氷期』、青年・磯崎新が感じた“未来の喪失”

                              恐らく1960年代。中央計算技術研究所の勝見博士は、ソ連の後追いをするかたちで“予言機械”を開発した。予言機械とは入力したデータを基に未来の出来事を予測するコンピューターであり、現在の人工知能(AI)のような仕組みだと考えていいだろう。 ソ連の予言機械は「未来は必ず共産主義社会になる」と予測した。予言機械の開発と使用は政治問題の火種となりかねない。上層部に研究を制限された勝見博士は、政治と結びつかない用途として、市井の一個人の将来を予言するというデモンストレーションを思いつく――。 以上は言うまでもなく、現実ではなくフィクションの中の話だ。小説家の安部公房(1924~93年)が1959年に発表した『第四間氷期』。この長編小説は、「日本で最初の本格的SF長編」といわれ、磯崎新(1931~2022年)も安部の最高傑作と評した。磯崎の代表作となる「大分県立大分図書館」(1966年竣工)を知るヒン

                                安部公房の『第四間氷期』、青年・磯崎新が感じた“未来の喪失”
                              • 世界的建築家の磯崎新さん死去 91歳 米プリツカー賞受賞

                                建築家の磯崎新さん。伊ミラノで(2014年10月29日撮影)。(c)Giuseppe CACACE / AFP 【12月30日 AFP】前衛的な作風で知られ、2019年に「建築界のノーベル賞(Nobel Prize)」とも呼ばれる米プリツカー賞(Pritzker Architecture Prize)を受賞した世界的建築家の磯崎新(Arata Isozaki)さんが28日、老衰のため沖縄県の自宅で死去した。91歳。葬儀は近親者で行う。 磯崎さんは欧米風建築が世界の主流だった時代に、東洋と西洋の歴史・文化を融合させた作風を確立し、ポストモダン建築の旗手とみなされた。 日本人で初めてプリツカー賞を受賞した建築家の丹下健三(Kenzo Tange)さんに師事した。 代表作にロサンゼルス現代美術館(MOCA)や1992年バルセロナ五輪の競技会場「パラウ・サン・ジョルディ(Palau Saint J

                                  世界的建築家の磯崎新さん死去 91歳 米プリツカー賞受賞
                                • 「ポストモダンの旗手」 建築家・磯崎新さん死去 91歳:朝日新聞デジタル

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                                    「ポストモダンの旗手」 建築家・磯崎新さん死去 91歳:朝日新聞デジタル
                                  • 「磯崎 新 −水戸芸術館を創る−」開催 | 青い日記帳

                                    「磯崎 新 −水戸芸術館を創る−」が、3月1日より水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催されます。 水戸芸術館全景 撮影:田澤純 昨年12月28日に沖縄にて逝去された日本を代表する建築家・磯崎新(1931-2022)。 国内外数え切れないほどの名建築を残した磯崎。水戸芸術館も1990年に彼が手掛けた建物です。 水戸芸術館 広場 撮影:田澤純 2019年に水戸芸術館で開催した「磯崎新―水戸芸術館 縁起―」展はまだ記憶に新しいのではないでしょうか。 水戸芸術館開館30周年記念事業 磯崎 新−水戸芸術館 縁起− 2019年11月16日(土)〜2020年5月6日(水・振) https://www.arttowermito.or.jp/topics/article_40285.html 水戸芸術館全景 撮影:田澤純 逝去された磯崎氏を偲び開催される今回の「磯崎 新 −水戸芸術館を創る−」展は、「磯崎新―

                                    • 磯崎新さん死去 芸術肌の知の巨人、建築界に大きな影響 - 日本経済新聞

                                      自分の事務所を「○○建築設計」と名付ける建築家が多い中、磯崎新さんの命名は一風変わっていた。芸術家の創作の場を意味する「磯崎新アトリエ」の名前には、ある心意気が込められた。アーキテクチャーはビルディングにあらず――。建築とは、単なる建物なのではなく、思想や歴史、文化の厚い層の上に成り立つとの思いがあった。東大在学中、広島の焦土で建設が始まった恩師・丹下健三の広島平和記念資料館を見て、建築という

                                        磯崎新さん死去 芸術肌の知の巨人、建築界に大きな影響 - 日本経済新聞
                                      • 建築の「知の巨人」磯崎新とあらたに出会う。入門者のための3著作3作品(文:藤村龍至)

                                        昨年逝去した世界的な建築家で評論活動でも知られた磯崎新。その思考と実践をあらためて知るための代表的な著書と作品を、建築家の藤村龍至・東京藝術大学准教授がセレクト。 磯崎新 写真はThe Pritzker Architecture Prizeホームページより( https://www.pritzkerprize.com/laureates) 理論と実作で世界をリード アート作品も制作昨年12月28日に逝去した建築家の磯崎新(享年91)は、理論と実作の両面で世界をリードした「知の巨人」であった。ポストモダニズム建築の傑作とされるつくばセンタービル(茨城)やロサンゼルス現代美術館(米国)をはじめ国内外で100以上の建築作品を手掛け、思想・芸術を横断する評論活動は後進に絶大な影響を与えた。無名だったザハ・ハディドや安藤忠雄、伊東豊雄らを国際舞台に導いた現代建築の目利き・プロデューサー的な役割も特筆

                                          建築の「知の巨人」磯崎新とあらたに出会う。入門者のための3著作3作品(文:藤村龍至)
                                        • 「磯崎新論」出典・関連情報

                                          『群像』2022年1月号、35〜41頁。 1. 三宅理一「虚構のフレームアップ──《建築》という形式」、「磯崎新1960/1990建築展」カタログ、1991年、31頁。 2. 鈴木博之「第15信 ブレーク」、石山修武研究室「X SEMINAR」、2012年4月13日。 3. 石山修武「作家論・磯崎新 第2章 丹下健三と磯崎新2」。 4. 浅田彰・岡﨑乾二郎・日埜直彦「磯崎新をどのように読み継ぐか──批評・手法・歴史をめぐって」、10+1 website、2014年10月。 『群像』2022年1月号、41〜50頁。 1. 「瓜生島」調査会編『沈んだ島──別府湾・瓜生島の謎』、「瓜生島」調査会、1977年、205〜206頁。 2. 近年の調査報告として、三澤良文ほか「瓜生島の消失とその原因へのアプローチ」、『月刊地球』第38巻2号、2016年、111〜122頁。この調査によれば、瓜生島と呼ばれ

                                            「磯崎新論」出典・関連情報
                                          • 磯崎新さんからの学び(前編)|Ryuji Fujimura

                                            2022年12月28日に磯崎新さんがご逝去されました。にわかに信じがたいですが、心よりご冥福をお祈り致します。初めてお会いしたのが2009年。最後にお会いしたのは2019年なので10年間接点を持たせていただいたことになります。どのように接点を持たせて頂いたか振り返るうち、せっかくなので私的備忘録としてまとめてみることにしました。 2009 磯崎さんとの出会い?は2009年1月28日に東浩紀さんが企画され東工大で行われた「アーキテクチャと思考の場所」というシンポジウムでした。東さんが「藤村龍至という建築家が・・・」と話題にして下さり、なぜか壇上で東さんが磯崎さんにそこにいない私の試みを説明して下さっているという不思議な状況になりました(一聴衆に過ぎなかった私は満員の会場で椅子に座れず通路の床に座って聴いていました)。その後『思想地図』アーキテクチャ特集でシンポジウムの記録とともに拙稿「グーグ

                                              磯崎新さんからの学び(前編)|Ryuji Fujimura
                                            • 大阪万博、都市デザイナー・磯崎新が悟った“運動の喪失”

                                              1970年3月14日、大阪府の千里丘陵で「日本万国博覧会」(大阪万博)の開会式が行われた。南北およそ292m、東西108m、地面から頂点まで高さ約37mにもなる大屋根の下で、マスゲームが披露された。大屋根から音と光、そして折り鶴が降り注ぐ。 そんな広場を、箱形の出目金のようなロボットがうろついていた。高さは14メートルにもなり、飛び出た2つの眼球にそれぞれ複数人が乗り込める。「デメ」と名付けられたこの演出用ロボットを設計したのは、磯崎新だった。 磯崎はもう1体、大屋根に仕掛けた照明や音響などの演出装置を制御する「デク」というロボットも設計し、開会式当日は自ら搭乗する手はずになっていた。しかし、会場のどこにも彼の姿はなかった。当日未明まで最終確認に奔走した結果、激しい腰痛を抱えてホテルのベッドから動けなくなってしまったのだ。 テレビ画面の向こうで、戦後日本最大級の“お祭り”が進行する。磯崎の

                                                大阪万博、都市デザイナー・磯崎新が悟った“運動の喪失”
                                              • 偉大な建築家・磯崎新の追悼に、ストリートの住人たちが集結 | NiEW(ニュー)

                                                「建築」だけではない、磯崎新の多面性 偉大な建築家がこの世を去り約1年が経った。2022年12月28日、磯崎新は終の住処となった沖縄で逝去した。ポストモダン建築の動向を実作と批評の両面で先導した同氏に向けてたくさんの追悼の言葉が語られ、岩波書店が発行する『思想』、建築専門誌『建築ジャーナル』では大特集も組まれた。遺稿集『デミウルゴス 途上の建築』(青土社)も刊行された。ここから数年以内には、その業績を辿る美術館規模の回顧展も開かれるに違いない(なかったらおかしい)。 磯崎新のポートレート。ラフな掲示方法にストリートのマインドを感じる しかし磯崎新を語ろうとするときに、ごく当然に前景化してくる「建築」は、磯崎の多面性を見えづらくさせもする。例えばNTTインターコミュニケーションセンター[ICC]で行われた展覧会『磯崎新 都市ソラリス』(2013年)で、当時ほとんど無名だったアーティスト・青柳

                                                  偉大な建築家・磯崎新の追悼に、ストリートの住人たちが集結 | NiEW(ニュー)
                                                • 1000万人の東京、青年・磯崎新が恐れた“都市の喪失”

                                                  歴史を振り返れば、様々な理想や空想をかたちにした都市計画案というものは数多い。しかし、その中で専門家を超えて世間を驚かせた計画となると、そう多くはないだろう。数少ない例外の1つが、「東京計画1960」(1961年)だ。 それは当時47歳の建築家・丹下健三が研究室のスタッフと共に作り上げた、東京湾上のマスタープランだった。人口増加による用地不足や交通渋滞を解決するため、東京都心と千葉県木更津方面を結ぶ帯状の交通輸送システムを建設し、そこに公的機関や金融、研究所といった東京の中核機能を集中させる。その幹から枝葉を伸ばすようにして、居住施設も整備する──という内容だ。 巨大な樹木のような構造で街を上空に拡張する「空中都市」(1960年)を既に構想していた博士課程学生の磯崎新も、この計画に参加している。 当時、東京湾上に都市をつくるという発想自体は特別ユニークなものではなかった。先立つ1959年に

                                                    1000万人の東京、青年・磯崎新が恐れた“都市の喪失”
                                                  • 磯崎新の東京都庁のコンペ案 | Scene Design - 株式会社 シーンデザイン建築設計事務所

                                                    昨年、12月28日に建築家の磯崎新さんが死去した。 写真は、磯崎新の東京都庁のコンペ案。 コンペは、磯崎の師匠である建築家、丹下健三(当時の都知事の後援会長)の案が選ばれ、超高層の都庁舎が建設され現在に至っている。 この時、磯崎は高さを競う高層ビル群の中で最も低い建物を目指すというアイデアを出し、丹下健三をはじめとした超高層ビルの新都庁案に対してのアンチテーゼを、唯一の低層案として提出し、みごと落選したが、磯崎は、「庁舎は市民を見下ろすものであってはならない」と言ってのけた。 内部空間においても、もはや庁舎としては他者となってしまっている市民の視線をアトリウムに導入することによって空間的編成を行っている。 建築に一つの閉ざされた系として内部に支配的な論理を貫通させるようなシステムは、ひたすら自己の内部にだけ向けられることになるが、アトリウムはそういった状況を打破することに大きな役割を担わさ

                                                    • 水戸芸術館で「磯崎新 水戸芸術館を創る」展がスタート、生前語った「100年後には残らない」の真意 | BUNGA NET

                                                      昨年末に亡くなった磯崎新氏の代表作である「水戸芸術館」(水戸市)で「磯崎新―水戸芸術館を創る―」が3月1日から始まった。古巣の『日経アーキテクチュア』2月23日号で磯崎新特集を担当した筆者(宮沢)は、自分の中の磯崎新再考(最高?)の熱が急速に高まっており、水戸芸術館の磯崎展も初日に見に行ってきた。 会場の水戸芸術館(写真:宮沢洋) 展覧会リポートの前に、もしかすると『日経アーキテクチュア』2月23日号の磯崎新特集をご存じない方へ。これは、Office Bungaからは私のほか、磯達雄と長井美暁が参加しており、なかなかボリューミーで読み応えのある特集だ。目次などを見たい方はこちらへ。 水戸芸術館に戻ろう。会場は同館の2階。現代美術ギャラリー第9室およびエントランス2階回廊。現在開催中の企画展(ケアリング/マザーフッド:「母」から「他者」のケアを考える現代美術)はもちろん有料だが、この磯崎展は

                                                        水戸芸術館で「磯崎新 水戸芸術館を創る」展がスタート、生前語った「100年後には残らない」の真意 | BUNGA NET
                                                      • 国際的建築家、磯崎新さんが死去 ポストモダンのリーダー(共同通信) - Yahoo!ニュース

                                                        米ロサンゼルス現代美術館や茨城県のつくばセンタービルなどの設計で知られる国際的建築家の磯崎新(いそざき・あらた)さんが28日午前10時半、老衰のため那覇市の自宅で死去した。91歳。大分市出身。葬儀は近親者で行う。喪主は長男宙(ひろし)氏。 丹下健三さんに師事し、磯崎新アトリエを設立。大分県立大分図書館、群馬県立近代美術館で日本建築学会賞。ポストモダン建築のリーダー的存在だった。 1996年のベネチア・ビエンナーレ国際建築展では日本館コミッショナーを務め、阪神大震災の廃虚を再現した展示が最高賞の金獅子賞を受けた。2019年にプリツカー賞を受けた。

                                                          国際的建築家、磯崎新さんが死去 ポストモダンのリーダー(共同通信) - Yahoo!ニュース
                                                        • 岸田日出刀/前川國男/丹下健三──日本における建築のモダニズム受容をめぐって | 磯崎新+日埜直彦 聞き手

                                                          岸田日出刀/前川國男/丹下健三──日本における建築のモダニズム受容をめぐって | 磯崎新+日埜直彦 聞き手 Hideto Kishida, Kunio Maekawa and Kenzo Tange: On Adoption of Modernism-Architecture in Japan | Isozaki Arata, Hino Naohiko 一九二〇年代の建築状況 日埜直彦──今回は磯崎さんの建築家としてのキャリアの最初期について伺いたいと思っています。 すでに『建物が残った』で当時のことについて多少書かれていますが、それを読んでいてもなかなか見えてこないのが岸田日出刀の特異な存在です。彼は戦中戦後の近代建築をリードし、その後の展開に大きな影響を与えたわけですが、磯崎さんが建築を考え始めた頃の情景として、まずは彼の周辺の状況についてお話いただけませんでしょうか。 磯崎新──岸田

                                                            岸田日出刀/前川國男/丹下健三──日本における建築のモダニズム受容をめぐって | 磯崎新+日埜直彦 聞き手
                                                          • Part2 往復書簡/Correspondence ——孫世代から見た磯崎新 | DISTANCE.media

                                                            新宿と大久保の喧騒からさほど距離のない、細い路地の行き止まりに、蔦に覆われた古い2階建ての建物がある。中に入ると、白い壁で囲まれた一辺5.4…

                                                              Part2 往復書簡/Correspondence ——孫世代から見た磯崎新 | DISTANCE.media
                                                            • 「ネオ・ダダの逆説」書評 前衛グループ論 磯崎新も射程|好書好日

                                                              ISBN: 9784622090939 発売⽇: 2022/11/22 サイズ: 22cm/331,7p 「ネオ・ダダの逆説」 [著]菅章 日本の戦後前衛美術で際立つ存在感を示したネオ・ダダ(ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ)を論じた「日本で初めてのまとまった書籍」である。もっとも、最初に手掛けられた文章は1990年代末に着手されている。「あとがき」では本書の効果の半分が「図らずも熟成を待ちながら寝かせた古酒」に喩(たと)えられている。「新たに仕込んだ新酒」が「時空を超えてブレンド」されているからだ。 どのあたりが新酒なのだろう。著者はかねてネオ・ダダが「戦後美術史の徒花(あだばな)」になりはしないかと危機感を抱いてきた。グループとしてのネオ・ダダは、赤瀬川原平、荒川修作、篠原有司男(うしお)、吉村益信や、周辺の工藤哲巳や三木富雄、建築家の磯崎新といった綺羅星(きらぼし)のごときアーティ

                                                                「ネオ・ダダの逆説」書評 前衛グループ論 磯崎新も射程|好書好日
                                                              • 亀裂はらんだ反近代への意志 建築家・磯崎新さんを悼む:朝日新聞デジタル

                                                                ","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"

                                                                  亀裂はらんだ反近代への意志 建築家・磯崎新さんを悼む:朝日新聞デジタル
                                                                • 焼け跡の大分、少年・磯崎新が見た“都市の喪失”

                                                                  1945年の4月、大分市で、ある女性が交通事故に遭って亡くなった。大分合同トラックという運送会社の専務取締役夫人・磯崎テツ。後の建築家・磯崎新の母親だ。 数週間後、大分市の中心部にほど近い屋敷の庭先で、咲き誇る牡丹(ぼたん)の花を片端から刈り取っていく男がいた。大分合同トラックの専務取締役にして俳人、そして磯崎新の父親である磯崎操次(俳名は藻二)だった。 操次は何かと口実を作っては庭に友人を集めたため、その家の牡丹は近所でもよく知られていたらしい。それが裏目に出た。太平洋戦争の末期、鮮やかな花の色が空襲の標的になるのではないかと、近隣住民がおびえだしたのだ。操次は自慢の牡丹園を自ら破壊せざるを得なかった。 焼け野原の大分市街地。1945年、焼け野原となった中央通り周辺。3月から8月まで大分市は22回空襲を受けた。別大電車は乗務員を兵隊に取られ、物資が不足。大分交通は運行に苦労した(写真:大

                                                                    焼け跡の大分、少年・磯崎新が見た“都市の喪失”
                                                                  • 磯崎新さん死去 「小さな作品でも妥協許さず」 別荘がある軽井沢町で悼む声|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト

                                                                    建築家磯崎新さんは北佐久郡軽井沢町に別荘があり、同町の「軽井沢高原文庫」には設計に携わった碑も立つ。同文庫の大藤(おおとう)敏行副館長(59)は30日、「小さな作品でも妥協を許さなかったが、自分が前に出ない、非常に謙虚な方だった」と悼んだ。 同文庫にある碑は、詩人の故・立原道造さんの詩碑と、作家の故・中村真一郎さんの文学碑。同文庫はさらに…

                                                                      磯崎新さん死去 「小さな作品でも妥協許さず」 別荘がある軽井沢町で悼む声|信濃毎日新聞デジタル 信州・長野県のニュースサイト
                                                                    • ICC | HIVE - 新しい日本の風景を建設し,常識を変え,日常の生活空間を創りだすために——荒川修作/マドリン・ギンズ展 対談:磯崎新・荒川修作

                                                                      本サイトをご利用の際,最新版のFirefox,Google Chrome,Internet Explorer,Safariなどを推奨しております. 現在ご利用のブラウザでは,レイアウトなどが崩れる可能性があります.

                                                                        ICC | HIVE - 新しい日本の風景を建設し,常識を変え,日常の生活空間を創りだすために——荒川修作/マドリン・ギンズ展 対談:磯崎新・荒川修作
                                                                      • ICC | HIVE - 磯崎新 都市ソラリス トークセッション テーマ「パラディアム」

                                                                        本サイトをご利用の際,最新版のFirefox,Google Chrome,Internet Explorer,Safariなどを推奨しております. 現在ご利用のブラウザでは,レイアウトなどが崩れる可能性があります.

                                                                          ICC | HIVE - 磯崎新 都市ソラリス トークセッション テーマ「パラディアム」
                                                                        • 亀裂はらんだ反近代への意志 建築家・磯崎新さんを悼む:朝日新聞デジタル

                                                                          ","naka5":"<!-- BFF501 PC記事下(中⑤企画)パーツ=1541 -->","naka6":"<!-- BFF486 PC記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 --><!-- /news/esi/ichikiji/c6/default.htm -->","naka6Sp":"<!-- BFF3053 SP記事下(中⑥デジ編)パーツ=8826 -->","adcreative72":"<!-- BFF920 広告枠)ADCREATIVE-72 こんな特集も -->\n<!-- Ad BGN -->\n<!-- dfptag PC誘導枠5行 ★ここから -->\n<div class=\"p_infeed_list_wrapper\" id=\"p_infeed_list1\">\n <div class=\"p_infeed_list\">\n <div class=\"

                                                                            亀裂はらんだ反近代への意志 建築家・磯崎新さんを悼む:朝日新聞デジタル
                                                                          • REALKYOTO – CULTURAL SEARCH ENGINE » 江之浦連歌有時庵(磯崎 新)+呆気羅漢(杉本博司)

                                                                            1 江之浦連歌 有時庵(磯崎 新)+呆気羅漢(杉本博司) 2019年の冬至――正確にはその前日の12月21日、磯崎新と私は杉本博司の江之浦測候所で日の出を見た。そのとき私の撮ったスナップショットを送ったところ、磯崎新が発句を添えて送り返してきた、それに杉本博司が下の句をつけて連歌(連句)のように仕立てたのが、ここに掲載する「江之浦連歌」である(それを踏まえ磯崎新が短歌から俳句に戻って仕立て直した単独作品――短歌的叙情の再切断?――も最後に添付する)。本来の連歌の巻き方とは違い、連歌の規則も無視しているので、「連歌もどき」というべきだろうが、冗談めかした手遊びの中に両者のヴィジョン(とくに日本的伝統に関わる)が垣間見られる興味深いドキュメントなので、京都市京セラ美術館での杉本博司の「瑠璃の浄土」展に際し、とくに許可を得てここに公開する次第である。 (浅田 彰)

                                                                            • 磯崎新さんを悼む 言動と作品で示した「建築の死」 建築史家 藤森照信 - 日本経済新聞

                                                                              伊東豊雄が当選した「せんだいメディアテーク」のコンペ審査終了のあと、磯崎と石山修武と私の3人しかいないガランとした新幹線の車両の中で、この機しかないと思い、生まれ育った家庭の話を聞いた。「大分の有力者の父は花街に入り浸るような状態で、悲嘆した母は家を捨て京都の宗教団体に身を寄せ、妹と2人だけで過ごした」建築家と建築史家の黙契に従い、捨て子のようにして過ごした日々の件は語らずにきたが、ここに書

                                                                                磯崎新さんを悼む 言動と作品で示した「建築の死」 建築史家 藤森照信 - 日本経済新聞
                                                                              • 磯崎新さんが手がけた美術館、文化施設

                                                                                美術愛好家にとって身近な美術館や文化施設も数多く設計しています。故人の業績を偲ぶ意味を込めて、代表的な建築をいくつか紹介します。 冒頭にあげた水戸芸術館は1990年の開館。水戸市政百周年を記念する高さ100メートルの塔をシンボルとし、コンサートホール、劇場、現代美術ギャラリーの3つの専用空間で構成された複合文化施設。意欲的な企画の現代美術ギャラリーでアートファンにもおなじみですね。同館では「中﨑透 フィクション・トラベライター」展を開催中(1月29日まで) ◆ 北九州市立美術館 1974年の設立。本館はグリッドを基調にしたデザインで、ファザードから二本の筒が飛び出し、左右に比翼が伸びたユニークな形をしています。この二本の筒の印象が鮮烈で、思い出される方も少なくないかと思います。同館では「横尾龍彦ー瞑想の彼方」展を開催中(1月22日まで) ◆ 群馬県立近代美術館 1974年の開館。一辺を12

                                                                                  磯崎新さんが手がけた美術館、文化施設
                                                                                • 総特集 磯崎 新 | Living Well Is the Best Revenge

                                                                                  『現代思想』の臨時増刊「総特集 磯崎 新」が滅法面白い。私は磯崎の著作はほとんど読んだことがないし、建築にもさほど親しんでいない。しかし1980年代に大学や大学院で学んだ者としては、当時建築家というよりバリバリの理論家としての磯崎の存在感は圧倒的であった。『批評空間』や『現代思想』の常連として多くの刺激的な討議に加わる一方、一連のANYコンフェレンスで欧米の知識人を相手に丁々発止のやり取りを続ける。(今、手元に『Anywhere』を広げてみたのだが、コンフェレンスの際に撮影されたと思しき集団ポートレートには磯崎、浅田を中央に、デリダ、コールハ―ス、リベスキンド、フレデリック・ジェイムソンから荒川修作、安藤忠雄までが写っているではないか。このような時代がかつてありえたのだ)当時、磯崎のよきパートナーは浅田彰であったから、今回の特集の冒頭に浅田との対談、続いて二人の最初の対談である1985年の

                                                                                    総特集 磯崎 新 | Living Well Is the Best Revenge