西郷隆盛こそ、最大公約数的日本人の好むリーダーのイメージそのものだろう。 上野山の銅像で見られるように、薩摩絣(さつまがすり)の着流しに小倉(こくら)の袴、腰には脇差のみを帯び、美髯(びぜん)を蓄えず無精髭(ぶしょうひげ)を生やし、髪型は法界坊(ほうかいぼう)(五分刈り)とくれば、この姿を愛さない日本人はいない。 こうした全身から発する何とも言えない愛嬌(あいきょう)が、その人間性の評判にも相当、加点していたと想像できる。 その愛すべき大西郷が、なぜに敗者となったのか。 原因は「明治6年の政変」にある。 戊辰戦争が終わり、明治新政府が発足した。 己の役目は終わったとばかりに帰農した西郷だったが、明治2(1869)年2月、鹿児島藩主・島津忠義(ただよし)の懇望(こんぼう)により、鹿児島県参政を拝命すると、今度は明治4年1月、岩倉具視(ともみ)と大久保利通(としみち)に請われて入閣、参議の座に