われわれが避けねばならぬのは、「理解するよう努める」ということの罠である。つまり、低線量被曝の確率的な健康被害が決着のつかぬ議論となる主要な理由は、誰もがそれを「理解しよう」と努めることにある。そういった態度の紋切り型の一つに従えば、「何が起きているかを説明しようとすれば、少なくとも広島長崎のLSS調査の統計的な手法とその解釈を理解し、測定誤差や精度の理論、内部被曝の臓器モデルなどあれこれについて知識を得なければならない」ということになるが、放射線の健康に対する影響の「複雑さ」をこのように強制的に喚起させることが結局何に貢献するかといえば、健康被害に注がれる疫学的眼差し、つまりは集団レベルで記述された健康被害に対して観察者(同時に被害者)という個人が保っている距離を維持することに貢献するのである。言い換えるなら、福島原発の事故以後の出来事が証明しているのは、「理解することは許すことだ」とい