ネットが興隆する前から、読むべき何冊の本、といったテーマの話題はあったものだが、ネットの興隆以降はさらに、その冊数に対して、その前提に何かしら、知識や読書経験というものが数量的に伝達できるかのような錯覚があるように感じられる。しかし、読書というのは、おそらく、読む、今読む、自分の人生をその読書の時間に費やす、そうした、その時の私とその一冊の本の関係のなかに、あたかも愛の行為というものがそうであるように、あるものだ。そこだけで言うなら、読むべき本などというものはなく、今読まれている本と繰り返し読み返される本しかない。それはいつも一冊の本として現れる。 とはいえ、そうした一冊の本たり得る本は、人の経験というものを人々として広く見渡すなら、古典と呼ばれる書籍のなかで数冊となる。そうした数冊がなんであるかと考えるなら、循環して、読むべき数冊の本という幻影に捕らわれてしまうのもしかたがないことだ。
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