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Arisanに関するsphynxのブックマーク (27)

  • 犠牲と原発 - Arisanのノート

    いま、死傷者を出しながら、福島の原発では文字通り決死的な作業が続けられている。 政府はこれに関し、作業員の被ばく量限度を引き上げる決定をしたという。恐ろしい決定だ。 http://sankei.jp.msn.com/politics/news/110315/plc11031523070047-n1.htm こうした現状について、「大事故で最悪の事態になるのを防ぐためには、仕方がない」などとは言えない。 もちろん、ぼくは大事故になることは怖いので、作業をするなという勇気はないが、こうやって明らかに死んだり被害を受けたりする人が出る現場に、自分たちの安全の確保のために、他人(労働者)を送り込んでいるという現実は、とても「仕方がない」と言って片付けることは出来ないはずだ。 また、「この人たちの努力に感謝し、経緯を払え」という言い草も、つまりは「尊い犠牲」というような言い方と同じであって、人の生命

    犠牲と原発 - Arisanのノート
  • 死の強制労働から即時解放せよ - Arisanのノート

    夕方、原発からのテレビ中継を見てて、あらためて当に怖いと思った。 今起きている危機的な事態、それが何をもたらすのかは、もちろん怖い。 だが、それよりも具体的に、いつ大爆発が起きるか分からない、しかも常時恐ろしい数値の放射線にさらされながら、そこで働いている、作業をさせられている人たちの感じている恐怖が、自分の身に感じられるように思えたのだ。 ぼくはもちろん、現在の福島原発のような状況はもちろんのこと、普段の原発のような危険のなかで働いたことなどない。 だが、これまで非常勤の色んな仕事をしてきて、補償のまったくない状態で危険の伴う労働をさせられる時の心境、またそれが今の社会では「当たり前」のことになってる、ということは知っている。 そういう労働の場では、危険を拒んだり選んだりするような自由意志が働く余地は、そもそもあまりない。自由意志が保証されるような条件がないのである。 今回の事態でも、

    死の強制労働から即時解放せよ - Arisanのノート
  • 犠牲に供されるもの - Arisanのノート

    原発での給水作業やその他の作業はすすめられており、このまま最悪の状況の回避がもたらされるのであれば、そのこと自体は、喜ばしいとしか言いようがない。決して「最悪の状況」がもたらされてはならない。そう思う。 もちろん、作業によって死傷したり被曝している人たちの存在は、無視も正当化も美化もされてはならない事実として、目の前にある。 何度も繰り返すが、原発の存在は、それが「正常」に稼動している日常から、こうした現場の労働者や周辺住民の「犠牲」のうえにしか成立しないものであると思う。まして、このような大事故が起これば、なおさらそのことが露呈する。 最も基的なことを言えば、「想定」では自然などの現実には対処できない部分が残る。その現実が起きたとき、「想定外だった」と言ってすませるには、核エネルギーはあまりにも破壊的でありすぎるのだ。異常が起きたときに制御できないような力を、われわれは利用しようとして

    犠牲に供されるもの - Arisanのノート
  • 『朱子伝』 - Arisanのノート

    年末から正月にかけて読んで、あまりの面白さにびっくりした。 朱子伝 (平凡社ライブラリー) 作者: 三浦國雄出版社/メーカー: 平凡社発売日: 2010/08/10メディア: 単行(ソフトカバー) クリック: 27回この商品を含むブログ (4件) を見る 大思想家とされる朱子だが、このでは、気が短く直情径行で寛容さに欠けていたり、言行不一致であったり、またそうかと思うと心を許した弟子には見っともないほどに愛着や弱音を吐露してしまうなどといった、矛盾と欠点に満ちた「人間朱子」の姿、そうした性格上の欠点をよく自覚していながら、それを十分に克服することも出来ないまま死んでいった一人の男の姿が浮き彫りにされている。 著者の深い敬意と愛情を込めて描き出された、生身の朱子像と呼ぶべきものである。 朱子の性格について、彼をよく知る人は、たとえば次のように諌めていたという。 友人であり、思想上の好き

    『朱子伝』 - Arisanのノート
  • 警官の孤独 - Arisanのノート

    以前にも書いたことがあると思うが、テレビ時代劇の『鬼平犯科帳』シリーズが好きである。 今でも時々新作が放映されたり映画になったりするし、毎週、20年ほど前に放映されたものを再放送してるのを、よく見ている。 このシリーズの特徴のひとつは、蟹江敬三や梶芽衣子、それに先代の江戸家八などが演じる「密偵」たちの存在感だ。 彼らは、元盗賊だったが、「鬼平」(中村吉右衛門)に捕まったり関わりを持ち、その人柄に感化されて、今ではその手下となって働いているのである。 いわゆる「お上の犬」と呼ばれる立場になり、かつての仲間たちを裏切るようなことをする仕事である。 無論最終的には、元の仲間たちを裏切って「お役目」を果たすのだが、そこに至るまでに毎回いくらかの逡巡や苦悶が描かれる。ここにこのシリーズの、魅力のひとつがある。 それに関して特に興味深いのは、その際に、結局彼らがそうした最後の決断をする決め手になるの

    警官の孤独 - Arisanのノート
  • 差別の復権 - Arisanのノート

    「猿虎日記」さんに、今回の朝鮮学校対象除外問題についての政府への要請書への賛同の呼びかけ文が載りました。 「高校無償化」制度の朝鮮学校( 高級部)への適用を求める要請書(転載) http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20100301 締め切りは、3日早朝です。 以下、そのまま文面を転載させていただき、蛇足ですが、末尾に関連して記事を書き加えます。 (以下転載) 高校無償化の朝鮮高校排除の動きに対し、以下の要請書を政府に提出するよう運動が行われています。 ぜひ賛同してください。 賛同は、個人でも団体でもかまいません。賛同の方は、3月3日 午前7時までに、 koshida@jca.apc.org あるいは、FAX:  011-596-3683 011-596-3683 まで返信してください。 また、知り合いの方にも知らせてください。 「高校無償化」制度の朝鮮学校( 高級

    差別の復権 - Arisanのノート
  • 「貧困」の露呈とその隠蔽 - Arisanのノート

    連日ハイチから伝えられる被災の状況は、目を被いたくなるとしか言えない惨状だ。 http://mainichi.jp/select/world/news/20100118k0000e030051000c.html だがこうした大災害の生じたとき、もちろんその出来事によって被害を被った人たちの救援が急務なのだが、そこで露呈しているものは、それまでの日常の世界に存在していた圧倒的な不均衡や歪みであり、それに対するわれわれの無関心でもあるということも、忘れてはいけない。 つまり、ハイチという国が、この現在の世界の中で極度の貧困に苦しんでいなければ、したがって一定の強度をもった建造物や医療設備や防災システムを持っていたなら、これほどの被害は生じなかったはずだが、それほどの貧困の現実と、それを作り出している世界的な富の偏在というものに、私を含めた多くの人は、このような災害の惨状に接して、初めて気づくの

    「貧困」の露呈とその隠蔽 - Arisanのノート
  • 自由と憎悪 - Arisanのノート

    芸もないが、今回もちくま学芸文庫版のサルトル『存在と無』から、興味深い箇所をメモ。 存在と無―現象学的存在論の試み〈2〉 (ちくま学芸文庫) 作者: ジャン=ポールサルトル,Jean‐Paul Sartre,松浪信三郎出版社/メーカー: 筑摩書房発売日: 2007/12/10メディア: 文庫購入: 1人 クリック: 11回この商品を含むブログ (21件) を見る 巻2の終わりのほうだが、「まなざし」によって「対象化する/対象化される」という相克の関係が、他人に関わる自己の存在のあり方(対他存在)の質であると考えるサルトルは、その相克的なあり方をもっとも代表的にあらわすものとして「性的欲望」というもの、つまりは人間の性的な存在(関係)のあり方を捉え、そこからさまざまな事象を記述していく。 たとえば、こんな風に書いてある。 われわれは、決して、平等の次元に、具体的に身を置くことができない。い

    自由と憎悪 - Arisanのノート
  • ヴェーユと「イスラエル」 - Arisanのノート

    神を待ちのぞむ 作者: シモーヌヴェーユ,Simone Weil,渡辺秀出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2009/02/01メディア: 単行 クリック: 3回この商品を含むブログ (11件) を見る この全体のなかでいうと、とくに大きな論点というわけではないが、前から気になってることなのでメモしておく。 『重力と恩寵』を読んだときから気になっていたのは、ヴェーユが「イスラエル」と呼ぶものに対する、彼女の敵意の激しさである。 それが何のことなのかは、後で書くと思うが、あのを読んだときには、それはキリスト教の神父であるあのの編集者ティボンが、ユダヤ人であるヴェーユの非ユダヤ教的な面を強調するために、そういう箇所を抜き出したのだろうぐらいに思ってたが、そういうことではないようだ。 この件について、『神を待ちのぞむ』の「序文」のなかで、やはりカトリックの神父であるぺランという人は、次の

    ヴェーユと「イスラエル」 - Arisanのノート
  • 反論・左翼と倫理性 - Arisanのノート

    lmnopqrstuさんから、明快な整理と批判の文章が寄せられましたので、これに答えて反論します。 http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090329/1238350534 3部構成になっているうち、「2」の部分を全文引いてみます。 氏が「誤読」を経て現在の立場に至った過程から、「誤読」の立場と、「誤読」を否定して(朝鮮人にも)基的人権を保障する原則的立場が、それぞれ想定できる。二つの立場は次のようになるだろう。 A : 自己決定権を唱える朝鮮人は、個人に対して集団の論理の優位を主張する朝鮮人である。 B : そのような主張は危険であり、集団の論理の優位性は見逃すべきでない。 A’: 自己決定権を唱える朝鮮人は、個人に対して集団の論理の優位を主張する朝鮮人ではない。 B’: 朝鮮人にも日人と同じ基的人権を保障すべきである。 つまり氏の解釈は A⇒B か

    反論・左翼と倫理性 - Arisanのノート
  • カフカ賞とイスラエル問題 - Arisanのノート

    村上春樹のエルサレム賞受賞(受諾)とその講演のことが話題になっている*1けれども、国際的な文学賞の舞台にこの作家がはじめて登場したのは、06年のフランツ・カフカ賞だろう*2。 村上は、『海辺のカフカ』という題の小説も書いてることだし、このあまりに有名なユダヤ人文学者の名が付いた賞を受けるということは、意外に思わない人もいるかもしれないが、ぼくはカフカの母国といってよい、というか最もカフカ文学への思い入れが強いはずのチェコのこの文学賞を村上が受賞したと聞いた時には、いささか驚いたものだ。 この時の記事を探してみたら、以下のものが目についた。 http://blog.livedoor.jp/wien2006/archives/50351600.html カフカが村上にとって「最も好きな作家だ」というのも、ぼくにはやや意外だったが、それはよいとして、次の文章。 ところで、プラハ生まれのユダヤ人作

    カフカ賞とイスラエル問題 - Arisanのノート
  • 死刑にしてくれ - Arisanのノート

    星島被告に無期懲役判決 江東区マンション女性殺害事件 http://www.asahi.com/national/update/0218/TKY200902180050.html この裁判だが、公判中から報道のされ方を見ていて、納得のいかなかったことがある。 気づいてる人が多いだろうが、この機会に一応書いておく。 それはいくつかのメディアで、被告が自分自身を死刑にして欲しいと望んだということが、まるで死刑判決を後押しする(正当化する)根拠であるかのように報じられていたことである。 たとえば、被告がこのように言ったからといって、当に反省しているとは信じられない、という意見はあるだろう。また、被告がどう言おうともこんなことをする奴は死刑にするべきだ、という意見もあるだろう。 だがどう考えても、被告が自分を死刑にして欲しいと述べたということが、死刑の判決を下すべきだということの理由になるとは考

    死刑にしてくれ - Arisanのノート
  • 希望の卵 - Arisanのノート

    モジモジさんの記事を読んで知った、村上春樹氏のエルサレム賞授賞式についての報道。 http://www.asahi.com/culture/update/0216/TKY200902160022.html 村上さんは、授賞式への出席について迷ったと述べ、エルサレムに来たのは「メッセージを伝えるためだ」と説明。体制を壁に、個人を卵に例えて、「高い壁に挟まれ、壁にぶつかって壊れる卵」を思い浮かべた時、「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と強調した。 また「壁は私たちを守ってくれると思われるが、私たちを殺し、また他人を冷淡に効率よく殺す理由にもなる」と述べた。イスラエルが進めるパレスチナとの分離壁の建設を意識した発言とみられる。 たしかに、「壁と卵」の比喩は、この記事だけを見る限り両義的に読める*1。 記事にある「分離壁」(つまりイスラエル側の行動・姿勢)とだけ一

    希望の卵 - Arisanのノート
  • もう一度、村上氏の講演に触れます - Arisanのノート

    村上春樹氏の講演だが、共同通信による要旨を見た。 http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/090216/acd0902161022003-n1.htm 先のエントリーでも触れたが、ぼくはやはり最初の、 イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。 とある部分に、もっとも注目する。 このとくに後半の部分で、村上氏は自分の行動が持つであろう政治的な意味合いを真剣に受け止めて考え、そのなかで氏として最善と思われる選択をしたことが述べられている。 繰り返しになるが、まずこのこと自体を、ぼくは重視する(口幅ったい言い方だが)。 そして、とくに「圧倒的な軍事力を使う政策」という点に言及

    もう一度、村上氏の講演に触れます - Arisanのノート
  • 不安定な職場を移動させられ続ける人々 - Arisanのノート

    ときどきテレビや新聞に、首を切られた派遣労働者が、警備の仕事や介護職など、人手が不足して困っているところに勤め口を見つけている、ということが報じられる。 これは、応急処置もいいところで、どう考えても問題の「解決」につながるような事態ではないはずだけど、何か「足りないところに人材が流れて、世の中うまく回ってますよ」みたいな報道のされ方になってるときがあり、あんまりだと思う。 大体、いま人手が足りないで困ってる職種の多くは、賃金が安いとか雇用が不安定だとか、労働条件がよくないから成り手が少ないわけだ。 不安定な雇用のされ方をした結果として首を切られた人たちが、都合よくそういうところに補充されても、そういった職種の条件の悪さが改善されるわけではない。むしろ、賃金が上がったりする理由がなくなってしまうぐらいだ。 問題になってるのは、低賃金の不安定な雇用の仕方をされてきた人たちがいて、その人たちへの

    不安定な職場を移動させられ続ける人々 - Arisanのノート
  • 『カムイ伝講義』 - Arisanのノート

    カムイ伝講義 作者: 田中優子出版社/メーカー: 小学館発売日: 2008/10/01メディア: 単行購入: 4人 クリック: 42回この商品を含むブログ (27件) を見る 去年後半に出版された話題のだが、江戸時代に関して瞠目するようなことが、いっぱい書いてある。 たとえば、江戸時代は日でも綿花の栽培がたいへんさかんで、一大産業になっていたことなどは、まるで知らなかった。 養蚕(生糸)のイメージはあるが、綿花の栽培がそんなに盛んだったとは。 正直、綿花と生糸の区別も、よく分かってなかった。 前半ではとくに、当時の農村のことに焦点があてられてるのだが、とくに注目されるのは、江戸時代の、とくに農村がいわゆる「自給自足」の経済ではなく、貨幣経済(商品経済)によって(媒介として)成り立っていた、ということである。 当時の農村は、驚異的な技術開発によって「循環型」ともいわれる無駄のまったくな

    『カムイ伝講義』 - Arisanのノート
  • 反駁者たち - Arisanのノート

    「村上春樹氏にエルサレム賞を辞退するよう働きかけよう」という動きに対する反駁の意見は、ネット上で散見される限り、次の二点が中心的であるようだ。 1 村上氏の文学は、その内容自体が、最終的に戦争やさまざまな争いの解消に向かうことを訴える性質のものである。今回のガザでの事態に関して(も)村上氏が作家としてなすべきこと、出来ることは、その作品を(イスラエルの人たちにも)広く読んでもらうことである。 だから、賞の辞退などの直接的に政治的と思われる方法はとる必要がない(そういう手段をとるかどうかは、人の自由である)。 2 イスラエルの人たちに対するアプローチとしては、賞の辞退などの直接に政治的・批判的な手段よりも、村上文学を広く読んでもらうことで「平和」への志向を深めてもらう、いわば精神的に平和を尊重する方向に進んでもらうという手段の方が、むしろ有効である。 直接的な働きかけは、無力であるに決まっ

    反駁者たち - Arisanのノート
  • イスラエル問題と声の排除 - Arisanのノート

    29日に、日ではまた4名の死刑囚に対する刑の執行があったことが伝えられたが、イスラエルが「通常犯罪」に関しては死刑を廃止しており、国際的にも死刑廃止をめぐる議論の場で積極的な役割を果たしていることは、よく知られている。 このことに限らず、イスラエルという国は、その軍事的な外見とは裏腹に、制度の面でも公共空間についても、決して非民主的な国というわけではない。 イスラエルが建国されて間もない頃、アメリカよりもソ連との結びつきが強かった50年代には、この国のキブーツを訪問したソ連の代表団が理想郷のようにその空間を絶賛したことを、ドイッチャーは興味深く書いているが、ソ連型の社会主義にとってというよりも、むしろ強権的な支配に抗して民主的な政治・言論空間の護持を追求するリベラル左翼的な価値観(ぼくはこの言葉を、一概に非難や揶揄の意味で言っているのではない)を持つ人々にとってこそ、イスラエルは強い魅力

    イスラエル問題と声の排除 - Arisanのノート
  • われらが心の内なるイスラエル - Arisanのノート

    村上春樹さんの「エルサレム賞」受賞に、一ファンとして言っておきたいことhttp://d.hatena.ne.jp/fujipon/20090127/p1 ある目的を果たすための道は、必ずしもひとつではないし、人にはそれぞれ、自分のやりかたがあるのです。 それが他者に致命的なほどの痛みをもたらすものでないかぎり、誰かの「抗議」のやりかたが自分の意にそまないものだからという理由で、「人として批判されてるのです」なんて言うのこそ、「イスラエル的」じゃないの? 「正義」とか「大義」って怖いよ。 イスラエル的なものは、世界のあの場所にだけあるんじゃなくて、僕たちの心のなかにいまも息づいているのです。 「他者に致命的なほどの痛みをもたらす」どころか、現実にガザではたくさんの他者の命が奪われ続けてるわけですよね、今も。 そして、いま「イスラエル的」という形容詞を使うとすれば、その意味以外にはありえない。

    われらが心の内なるイスラエル - Arisanのノート
  • どうする春樹? - Arisanのノート

    村上春樹、エルサレム賞受賞おめでとう!!! http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090125/p1 拝啓 村上春樹さま ――エルサレム賞の受賞について http://0000000000.net/p-navi/info/column/200901271425.htm ぼくは村上春樹という作家には、今ではあまりいい印象を持ってないので、正直、今回の件についても辞退するという期待は持ってない。 大江健三郎ならともかく、村上春樹は、そういうことをしないような気がする。 他にも年少の作家で何人か、それをしそうな人が思い浮かぶが、春樹はどうか? だから、もし彼が賞を辞退するなりなんなりすれば、ぼくはこの作家について、また「村上春樹的なもの」について、見誤っていたことになる。そうなれば、幸いだ。 言えることは、彼がこのイスラエルの賞を辞退すれば、日国内の(文化系の)メデ

    どうする春樹? - Arisanのノート