桑田、松坂など例外はあるが、甲子園優勝投手で大成した者はほとんどいない。誰もが認める才能の持ち主が、花を咲かせられないのはなぜなのか。失意のアスリートたちが口にしたのは「心」だった。 なぜ与四球がゼロなのか 「高校野球史上、最も美しい」と絶賛されたオーバースローのフォームを、プロ入り3年目でスリークォーターに改造。これが彼の投手生命を絶った。 「コーチの勧めで変えたのですが、体に負担がかかっていたらしく、二軍での試合中にブチッと音がして、軟骨剥離を起こしてしまったのです」 そう語るのは'86年、ほとんど無名だった東亜学園(西東京)を2年生エースとして甲子園に導いた川島堅(43歳)だ。 この年こそ初戦で米子東に敗れたが、翌年は堂々ベスト4入り。34回3分の2イニング連続無四死球という抜群の制球力が光った。 '88年、ドラフト1位で広島に入団。将来のエースとして期待されたが、冒頭のケガの影響は