足利 満貞(あしかが みつさだ)は、室町時代中期の武将。第2代鎌倉公方・足利氏満の四男[1]。稲村御所(稲村公方)と呼ばれる。 概要[編集] 陸奥国岩瀬郡稲村(現、福島県須賀川市)に派遣、下向し、稲村公方と呼ばれる。 なお、『喜連川判鑑』および『古河公方系図』では満貞を「篠川殿」、兄の満直を「稲村殿」としているが、『喜連川判鑑』の永享10年11月の項目では「稲村満貞」と呼称されている他、異説として『古河公方系図』に満直を「篠川殿」、満貞を「稲村殿」とする説も併記されており、兄と混同する資料が見られる。 学術的にも、稲村・篠川公方の比定を巡って揺れがあり、鎌倉府研究の先駆者である渡辺世祐の『関東中心足利時代之研究』(1926年)は、『喜連川判鑑』などの記述に従って、満貞を篠川公方、満直を稲村公方と比定したが、その後の記録・文献の研究などによって、1960年代には満貞と満直の位置づけが反対であ